大山講
江戸時代、大山登拝は一般的に大山講によるものが中心であった。この大山講による大山参りは、江戸時代中期から後期にかけて最盛期を迎えるが、これは家康による慶長の改革で坂本や蓑毛に降りた修験者などが、その後、御師として広く布教活動を行い、各地に大山講を形成し、結果として自らの力で檀家集団を組織化したことによる。
明治時代の各先導師(旧御師)の布教圏を「大山開導記」(各先導師に所属する講の一覧で、明治初期に書き改められたもの。全8冊 神社所蔵)で見ると、その範囲は相模、武蔵といった地域はもとより、安房、下総、上総、常陸、下野、上野、磐城、甲斐、信濃、越後、遠江、駿河、伊豆など広範囲(16ヶ国)に及ぶ。
これらの檀家総数は70万軒を超えるとされ、また講数はおよそ 1万5千講あったとする。例えば神奈川県内の旧大住郡について見れば、660の講数と9,581の檀家数が数えられ、これに関係する先導師は87名であったとされる。当時の大住郡の町村数は114であったので、平均してみると各町村に約6の講が存在していたことになる。
こうした講は、最盛期の宝暦年間、年間20万人が参詣に訪れたとされている。なお明治20年の阿夫利神社による調査では、信徒およそ50万戸で、1年に5万人が参詣したとされる。