明治時代
明治維新になり、明治元年3月、太政官布告による神仏判然令によって神仏分離が敢行され、全国的に廃仏毀釈の動きが激しくなる中、大山においても同様の動きが広がる。大山での仏教色の排除が進む中、その結果、石尊大権現の名は廃され大山阿夫利神社と改称され、山頂の石尊社は本社(阿夫利神社上社)、大天狗祠は摂社奥宮、小天狗祠は前宮となり、中腹の大山寺不動堂(本堂)跡には新たに拝殿が建てられ阿夫利神社下社となり、大山全体は神社として整備されることになる。なお男坂と女坂の分岐点にあった前不動は追分社となった。
この時、当時旧八大坊住持であった実乗は、弟子の教順を還俗させて大山勇と改名し、急遽大山阿夫利神社の祀官とする。しかし廃仏毀釈は激しさを増し、日ごとに堂舎が廃され山内の動揺は収まるところを知らなかった。
こうした中、明治6年(1673年)に平田派の国学者 権田直助が祀官に迎えられ、神道化が徹底されることとなる。
これにより大山の混乱は終息し、大山の純神道化とそのための神事や祭典作法の改革(*旧来の仏式による社務を神道に基づく祭祀行事に改める)、門下生の育成、また各地の大山講社を結集して「大山敬慎教会」を組織し、講員の教化にあたった。なお明治6年7月には県社兼郷社に列せられている。
一方、明治9年(1876年)には、大山寺不動堂が女坂の中ほど旧来迎院に移築され、不動堂の再建が始まる。これは古くから続く庶民の不動尊信仰に対する根強い支持によるものと考えられ、8年後の明治17年(1884年)に上棟式が営まれ、雨降山大山寺が再び姿を見せることとなる。
このように大山は、古代の山岳信仰を母体に社寺を中心とする神仏習合の信仰拠点として形成され、近世は僧侶集団による運営がなされ、明治の神仏分離以降は神道組織と仏教組織がそれぞれ別々の運営を行い現在に至っている。