丹沢・大山 歴史街道ものがたり デジタルアーカイブ

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歴史と文化 ~信仰の山に集う人々の想い~

江戸時代

 江戸時代に入ると、徳川家康は慶長10年(1605年)に大山寺の大改革に着手し、大山八大坊学頭に平塚市旧八幡村の成事智院住持実雄法師を命じた。そして慶長14年8月28日に、寺院法度三ヶ条として次のような定が大山に下された。


一、従前不動者永代清僧結界之地堅相守事

 注釈:不動堂より上の山は、永代、清僧の結界地であること

一、以前妻帯并山伏在家居住之屋敷者自別当八大坊清僧之分可申付事

 注釈:妻帯僧、山伏、在家の者の屋敷は清僧の土地と申し付けるべきこと

一、十二坊二自前々付来檀那并山林諸堂賽銭等一物無相違可為清僧進退事

 注釈:十二坊が前から持っていた檀家、山林および諸堂の賽銭は、すべからく清僧(八大坊)の計らいによるべきこと


 この家康による大山の寺社統制により、大山は八大坊中心の組織に改革された。なお妻帯僧や修験者は下山させられたが、こうした人々は大山の坂本地区や秦野の蓑毛地区に住み着き、以降、御師となり各地で庶民に大山信仰を広め、現在の門前町の基礎を築いていった。なお八大坊は、当時、阿夫利神社(石尊社)及び大山寺の別当として、大山全山の運営にあたっていた。

 このような統制の中、安堵として大山への寺領下布(朱印寺領57石)、加増(寺領100石)が行われた。こうして山頂に石尊大権現を祀り、中腹に別当寺雨降山大山寺を配した伽藍が整られ、更に御師による強力な布教活動も加わり、江戸時代には関東一円から多くの参詣者が訪れた。

 また家康改革後の大山寺は、寛永10年(1633年)の「関東真言宗古義本末帳」によると、事教本寺高野山として実践教義の指導は高野山から受けることとしている。そして当時の大山は、八大坊を中心に、供僧11坊(宝寿院、養智院、橋本坊、大覚坊、上之院、授得院、常円坊、実城坊、中之院、喜楽坊、広徳院)、衆徒13の24で構成され、この他にも定員外の僧(「此外無供之衆徒交衆員数不定」とある)が多く存在していたとされる。

 江戸時代末期の天保年間に編纂された相模国風土記稿によれば、八大坊以下、供僧11坊、脇坊6坊、承仕(候人)4坊、修験8坊、神家8坊(師職兼帯)、師職(御師)166軒とされている。このうち師職(御師)は、坂本に149軒、蓑毛に17軒が存在するとしている。

 徳川家および幕府の庇護はその後も続き、寛永15年(1638年)には大山寺伽藍再興が図られ、寛永18年(1641年)11月上棟入仏供養が行われた。同年には、三代将軍家光が青銅の六角釣燈籠四基を寄進している。更に寛永20年(1643年)には、春日局参詣の記録がみられる。

 寛政9年(1797年)の東海道名所図会巻五によれば、雨降山大山寺の項に、「......石尊大権現社、本堂奥不動(大山寺)より険路二十八町にあり、......祭神大山祇神、神体は巌石にして......」との記述がある。同様に新編相模国風土記稿に、「石尊社 當山の本宮にして山頂にあり、【延喜式神名帳】に載せし、阿部利神社是なり、祭神鳥石楠船尊、神躰秘して開扉せず」とある。

 古事記では大山津見神が山の神で、鳥石楠船神は海の神で弟神であることから、当初は農耕民の山神が祭られ、後に漁民の海神が合祀されたと考えられる。なお山内では火災による被害も多く、特に安政元年(1854年)には全山焼失の記録が残る。