名勝史蹟
昭和初期の大山山内の名勝史蹟に関する記述
以下の文章は、小林順三氏による「霊岳大山登拝のしおり」(昭和二年六月三十日発行)から、大山の「名勝史蹟」に関する記述を抜粋したもので、そこからは昭和初期の大山山内の様子を詳しく知ることができる。(注:文章は打ち直しています。)
先ず登拝者の雅杖を曳くべく伊勢原町より案内す。伊勢原より大山町に入らんとする右方高部屋村上糟屋洞昌院の近くに太田道灌の墓あり、墓は寶篋印塔形にして 高さ三尺、此邊を山王原といふ。此處より道を抂ぐること約一里日本三薬師の一なる日向薬師如来の靈場あり。行基菩薩の建立に係り今や國寶として保護せら る々もの廿四點あり。俗稱子安明神前といふに(高部屋村)比々多神社あり、拝殿向拝の柱二本削り去られて蜂腰の如くなれり。盖し安産のまじなひなり。境内 大槻あり、大山町に入り新町に二つ橋といふ小橋あり、廻國雑記に「おほつかな 流れもわかぬ川水に かけ並べたる 二つ橋かな」の歌あり、別所町役場附近 に小學校あり、傍に大山靈薬眞玉丸を授興する權田家あり、國學の大家直助翁の家居今尚存す。福永町に神社社務所あり、昔下屋敷といふ大山寺別當八大坊の住 宅地なり。後山を櫻山といひ、庭園に樹高三丈齢三百年の大槲あり、前方川を隔てて小徑三丁にして大瀧あり、福永町に愛宕瀧(新瀧ともいふ)あり。開山町に 入りて良辨瀧あり、開山堂あり、堂の後方小山を赤松山と云ふ。山麓に祠官兼大教正一等學正僧正五位権田直助可美眞道千知大人命の墓あり、門人文學博士井上 賴圀撰文の頌徳碑あり。瀑の左側に波羅樹(タラエ)あり、其の葉を採りて火に炙れば黒色の紋状を呈す、又文字を書けば恰も墨汁にて書かせるが如し。世俗熱 帯地方の貝多羅と混同す。更に登りて稲荷町千代見橋を渡れば大岌山西岸寺あり、俗に茶湯寺といふ。北の附近のもの人の亡後百ヶ日を過ぐれば此寺に於て茶湯 供養をなす。坂本町雲井橋際に瀑あり、元瀧とも不動瀧とも云ふ、橋を渡り登ること一丁にして追分社に至る。これより右を男坂とし左を女坂として二路に岐 る。男坂は峻坂なれど女坂は然程にあらず、只距離の稍遠きのみ。男坂二丁目より雷山に詣る小徑あり、八段の瀧は數層の奔潭をなす、十六丁目に別當八大坊の 上屋敷跡あり、女坂より登れば前不動堂下菩提樹あり樹齢三百年許りの名木なり、更に登りて無名橋(又は無言橋)といふありて古より此の橋上を通る時は物言 はざる風あり、磴道を登りて男坂に合す、此邊より二重瀧に至る約三丁なり。下社前磴道の左側に神鹿を放養し年々蕃殖しつつあり。欺くて下社に達し愈々本坂 にかかる。其登口に神門あり、平素閉門し春夏大祭の二期開いて頂上登拝を許す。之れより更に廿八町にして本社に達す。本坂一丁目に老杉對立す高さ十五丈許 り、宛然華表の如く之を鳥居杉といふ。廿四丁より間道を左折すること一二丁にして清泉あり、御神水として供奠す。漸く頂上に達すれば當山特殊の雨降山あ り、常に雨露の點滴するを見る。幹高二丈五尺 周囲九尺許、樹齢四百年を超ゆ、誠に珍奇の靈木なり。和名ブナと称し(又はソバノキ)温帯地方に産す。古昔 の石尊大權現は本社にして,大天狗小天狗(奥社前社)雲表に鎮座す。奥社より、左折右往して山巓を一周せる道あり、之を御刈廻又は御中道と云ひ、奇景悉く 寸眸の裡に集る。此道の東南面に親不知の險あり。其他晩春の山吹、躑躅、山桜、鶯に郭公に初夏の新緑谿流に河鹿の聲を聞き、炎天下の登拝は勇壮を極め、秋 の紅葉は言はずもあれ、山頂關八州の大光景を展望して更に蓑毛口に下り大山アルプスを突破し、秦野の出ずるキャンプ旅行も、少壮學子の壮快事たるべし。