各地区の大山灯籠行事への思い
上記のような状況から、小稲葉地区の各地区の大山灯籠行事からは、ご先祖たちが引き継いできた素朴な信仰心が現代に生きる方々にも十分繋がっているように見えました。下之町の灯籠がろうそくで燃えた時、中止も考えたが「お祖父さんが続けていた灯籠行事を、俺たちが途絶えさせるわけには行かない。」と一部の住民が立ち上がり、作り直し、今も地域を巻き込んで続いている。しかし、「もう、やめても良いではないか。」と言う住民方もおられ、次世代にまで、引く継ぐことは難しいと考えているようである。確かに、農業経営は天災には脆いが、温室経営などが多くなり、天候に極端に左右されなくなってきたからであろう。
「大山灯籠行事は俺の代までだな!」「灯籠を立ててくれる方が地域に残るなら、点灯行事は何とか続くのではないか」というご意見が多い。灯籠の光源が今は「LED」も使われていますが一時代前までは「ろうそく」だった。灯籠以外でも「ろうそく」による火事は結構起こっていました。江戸期、灯籠の灯の光源は「油」であった。行燈もそうであったが皿に入れる油の量で燃えている時間を制限し、無駄やうっかりを防止していた。現代のタイムスイッチである。ろうそくのように高さもないので天井が燃えることもなかった。そんな油の火で輝いている江戸期の小稲葉の灯籠は、微かに、星の光のように遠くに見えていたのではなかろうか。あちこちで大山の神々に献灯の意味も込めて灯されていた灯籠の光を頼りに、近在の民衆が大山参拝にそそくさと道を急いだ様子が思い浮かぶ。
八坂前の灯籠は、素朴で、かつての灯籠を想像できる掘立式の灯籠です。この灯籠は個人の寄贈で、点灯行事は自治会が引き継いでいる。点灯の順番表もあり、この灯籠が大きく破損するまでは続きそうに見える。八坂前や大田では、まだ「大山講」の名残りが強く残っているように感じられる。
この二つの灯籠がある沖小稲葉地区は、下之町方面と違って、田圃が多く残っている。しかし、田圃の畦はコンクリートで固められ、側溝もコンクリートであった。大田の灯籠はそんな側溝の蓋にロープで結んで立てられている。灯籠もろうそくを灯すように作られているが火袋は金属製であり、西洋の灯籠に似ている。灯の火の管理が難しいと判断した人々は、金属製の壊れず、燃えないものを作ったのであろう。という事は、沖小稲葉地区では次世代への継承の希望が残されていると感じた。
次世代への継承という問題では仲西の灯籠は大きな問題はなさそうである。設置は簡単で、一人の方が引き受ければ何時までも続きそうです。点灯も、今年からLEDに代わり、電源を重田酒店の倉庫から取っているので、重田酒店が営業を続けてさえいれば灯籠行事は続いて行くように思われる。しかし、実態は個人的な祭りの風体になっている。重田酒店の方は「建てるのは自治会の方がやっています。」と言われているが、それは「自治会が承知している」と言う風にも解釈できる。しかし、承知しているだけであっても、「かつて、灯籠行事は存在した」という歴史的事象の証拠には間違いない。
以上、報告者の感想であり、普遍性や科学性はともかく、一つの見方として読んで頂ければありがたいと思います。





