まとめⅡ
仲西地区の灯籠設置時には、点灯に携わる「重田酒店」のご主人も立ち合って下さった、「何故小稲葉地区に4基もの大山灯籠行事が残ったのでしょうか?」と、素直に、尋ねてみました。
「この辺りは稲作地帯で、昔から稲作には苦労し、大山信仰が深く、そして長く続いてきた。」と単純明快。他地域は開発が進み、宅地に変わる中、小稲葉地区はまだ田圃がたくさん残っている。しかし、それだけではなさそうだ。つまり、この辺りは、江戸期から大きな水害に悩まされ続けたのではなかろうか。下図は、明治15年に作成された「迅速測図」です。ほとんど江戸期と変わっていないと思ってよい地図です。

現在の平塚市との境界線となっている「玉川」。ど真ん中を突っ切っている「歌川」。下谷地区を流れる「渋田川」と下流地帯に大きな被害をもたらす洪水で有名な「暴れ川」が3本も流れている。恐らく、小稲葉地区の住民は洪水との戦いであったに違いない。
灯籠設置見学会の後、和田氏が我々を案内したのは、地元で祀っている仏さんと、古くから水害で何度も改修工事をした平塚市との境界線の工事跡であった。その後、今後の対策について関係者を招き、現地視察を行っている。この暴れ川の水害は現在でも大きな課題なのである。このことを地名から引き出している解説がある。平成17年度出版された『伊勢原の地名考』(伊勢原郷土史研究会編)である。『伊勢原の地名考(十四)』「小稲葉(こいなば)」の説明の後半部分で、次のように記してある。
・・・・・一方、『小稲葉』集落も歌川と玉川によって運ばれた土砂の堆積地が開拓されて成立したと思われ、水との闘争に明け暮れた年月を偲ばせる地名があちこちに残している。『トウトウミキ』は、河谷、海岸の水音『どよめき』からの音響地名であり、『落堀(おとしぼり)』は、『あくと川』とも呼ばれている『悪水落(あくすいおとし)』のことである。『流作(りゅうさく)』は、『流作場』ともいい、河川の沿岸の水が一面にかかっているような場所であって、水量の多い年は作付け、収穫も難しく、むしろ旱魃の年の方が収穫量が多かったという。・・・・・(文末に全文掲載)
上記のような土地柄の、この辺り(小稲葉地区)で、天候を司る大山の石尊を深く、長く信仰し続けて来た理由がわかるような気がする。科学が進んだ現在でも、平塚市吉沢にある神奈川県立農業試験場では、大山にレンズを向けた常設カメラを設置し、常時、リアルタイムでその映像をネットで流しています。これは、大山にかかる雲の具合を見て、天候を判断してきた地元住民に対する天気予報である。特に、相模湾で漁をする漁民にとっては大切な情報らしい。大山の雲の様子は科学を越えているのである。
もう一つ考えられるのは、「講組織」の重要さである。沖小稲葉の大田の灯籠側にある「地蔵堂」前で、夜の灯籠行事見学時に、地元の住民の方が教えてくれたことであるが、この地蔵堂前で「念仏講」の講中が念仏を唱えていたと言う話である。昭和30年頃までの続いた話らしい。
「沖小稲葉の念仏講は地蔵講の一つで、地蔵尊像を祀るお堂の前で、大きな数珠を回しながら念仏を唱えていた講で、戦後も4,5人の講員で続けられていたと近隣の住民から聞いている。戦後は戦没者慰霊の念仏も唱えていたらしい(前文化財課職員 諏訪間伸氏談)。」と同時に、地蔵堂の側にあった直径30cm程の楕円形の石が、「力石」であったと地元の方が教えてくださった。この石を持ち挙げられれば、一丁前の大人として認められたと言う。米俵一俵分である。農業地帯も、こういった話は、情報交換や懇親機会としてどこにでもあり、先述した報告者の生地、山形県の置賜地方で戦後昭和30年頃まで続いていました。男性の大人は「庚申講」、女性は「観音講」、若妻は「大宮講(安産)」若衆は「○○人組」等、年齢や性別に講組織が作られ、経年によって、引き継がれています。
沖小稲葉の住民もこういった講中に支えられて、「灯籠行事」を続けられてきたのであろう。つまり、大山灯籠行事は、自分たちがこの地で生き残るためには、大切なつながりを結んでくれる行事だったに違いない。





