大山寺

相模の国に生まれた良弁僧正は晩年に父母を思い当地を訪れて大山に登った。峰上に登ると、僧正は地面から五色の光が出ているのを見出し、不思議に思って岩を掘り返してみると石像の不動明王が出現した。
不動明王よりこの山が弥勒菩薩の浄土であり、釈迦の変わりにこの山に出現して法を守護し衆生を利益しているとの託宣をうけた良弁僧正は一旦奈良に戻り、聖武天皇より東大寺を離れる許しを得るとともに、勅願寺の宣下を賜った。東大寺建立の際に協力した工匠・手中明王太郎を伴って大山に戻った良弁僧正は、3年間当地に住して伽藍を整えた。

明治新政府の神仏分離令(1868年)により、大山寺不動堂は来迎院に移るが、1876年に不動尊大堂の再建に着工し、1884年に上棟式、1885年に入仏式が営まれ、大山寺は明王寺として女坂の旧来迎院の地に再建される。なお1915年に雨降山大山寺の旧号に戻る。
現在、大山寺には国の重要文化財として鉄造の不動明王が安置されているが、これは文永11年(1274年)、中興の祖である願行房憲静上人により、鉄造の本尊不動明王と二童子像が祀られたものである。これにより一時衰退していた当山の伽藍が再び整えられた。
●当時の記録として、新編相模国風土記稿によれば次のような記述が見られる。
「鎌倉胡桃谷大樂寺住持願行、當山に参詣して山中房舎等、都て荒廃せしを見、再興の志願を発し江島辨財天に祈て金を得て本尊を鋳造し、且殿堂門廡に至る迄造営して舊に復す、故に願行を中興開山とす」
願行房憲静上人により鋳造された鉄造不動明王像は、像高97.9㎝(総高8尺7寸(約287㎝)、重量130貫(約480kg))で、脇侍に二童子立像を従えている。

本堂に向かい左にある宝篋印塔にお花とお線香を捧げ、時計回りに3回まわると願が叶うとされている。明治期の廃仏毀釈の際、壊されて内部のお経とともに谷底に投げ捨てられる。しかし、大山の人々により丹念に破片は集められ、保存された。大正期に東西講が中心となって復元した。






