神奈川県立川崎図書館は、ものづくり情報ライブラリーとして、工学・産業技術・自然科学分野の資料を収集・提供する専門的図書館ですが、その方面に詳しくない方が楽しめる本もあります。
『科学者の自由な楽園』もそのひとつで、著者は1965年にノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎博士。
著者の肩書きから、ハードルが高いと敬遠される向きがあるかもしれませんが、科学者きっての名文家(と私は思う)である朝永博士の文章にぐいぐいと引き込まれていきます。本書は科学や教育、日常のよしなし事など36の小品を収録していますが、その中から私の好きな5本を紹介します。
[おたまじゃくし]は、庭の池のおたまじゃくしと近所の子どもたちを描いたエッセイで、小さき者たちへのまなざしがどこまでも優しく、陽だまりのような著者の人柄があらわれた逸品です。
[好奇心について]は、教育関係者向けの講演文で、著者は「子どもの好奇心を、つまらない好奇心から意味のある次元の高い好奇心に導いていくということ、私は、これが科学教育のひとつの基本的な考え方ではないかと思う」(P.64)と説いています。そして、好奇心を減退させないためには「知的な渇き」(P.70)が必要とし、情報過多に警鐘を鳴らしています。
[わが師・わが友]は、著者の青春時代の回顧録です。進路を見失い、大学の同級生である湯川秀樹に劣等感を抱きながら陰鬱な日々を送る著者が、仁科博士と出会い、量子力学に魅せられ、理化学研究所で科学者としてのスタートを切ります。打ち込める何かと出合う幸福についてしみじみ考えさせられる内容です。
さて本書には、著者と交流があった科学者たちについての科学者論がいくつかあり、[混沌のなかから―湯川秀樹博士とのつきあい]では、盟友・湯川博士の、凡人には理解しえない天才科学者の思考形式を解説しています。
「こんとんの中からいつのまにか物理があらわれてくる」(P.184)という記述は言い得て妙で、さすが難解な理論を解明した著者の分析力と的確な表現力に圧倒されます。
ところで本書を読み進めるうちに、朝永振一郎という人は窮屈な話をしていると茶化したくなる性質の持ち主だと気づきます。[混沌のなかから~]でも、しかつめ顔で旧友を論じるのが照れくさくなったのか、ところどころに茶目っ気をのぞかせていますが、そんなユーモア好きの本領発揮とも言うべきエッセイが『訪英旅行と女王さま』です。
エリザベス女王に謁見した際のちょっとしたハプニングを題材に、図らずも女王に嘘をついてしまった決まりの悪さを落語のような笑いに昇華させています。
本書以外の朝永博士のエッセイも当館の所蔵本で読むことができます。半世紀の時を経ても色あせず、心をのびやかにする作品の数々を紹介したい気持ちはやまやまですが、ここに詳細を語るのは、未来の読者の「知的な渇き」に対する野暮というものでしょう。この拙文が偉大な科学者を身近に感じさせるきっかけになることを願いつつ、筆を置きたいと思います。
『科学者の自由な楽園』 朝永振一郎著 岩波書店 2000年
資料コード:80882566 請求番号:404/158 OPAC(所蔵検索)
(県立川崎図書館:抜き足差し足忍び足)