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文学界(1980年9月号)書影

村上春樹氏が『風の歌を聴け』で群像新人賞を受賞したのは1979年のことでした。

その翌年、表紙の村上春樹という文字に惹かれて手にした『文學界』で、この『街と、その不確かな壁』に出会いました。

その内容は、若くして亡くなった「君」のいる街に「僕」は盲目の預言者として入っていき、「影」を持たない「君」と親しくなります。やがて、街に入るときに引きはがされた「僕」の「影」が死にかけていると門番から教えられ、「壁」に阻まれながらも「影」を連れて現実の世界に帰ってくる、というものです。

どんなに虚構の世界に入り込んでみても、結局のところ人は、そこから抜け出し、弱くて暗い心である「影」を引きずって、現実の世界を生きていかなければならない。それは潔い結末であり、深く心に残りました。

5年後の1985年に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が刊行されました。

二つのまったく異なる物語が並行して進んでいくのですが、この『世界の終り』の方が、『街と、その不確かな壁』の世界でした。いろいろなことがもっと深く掘り下げられていて、そういうことだったのかと思うところもたくさんありました。ただ、『世界の終り』では、「僕」は自分の「影」を捨て、「影」を持たない「君」と街で生きていくことを選びます。そしてそれは現実の世界では死を意味するのでした。

同年8月、『文學界』に村上春樹特別インタヴュー「物語のための冒険」が掲載されました。

この中で作者は『街と、その不確かな壁』についてこう語っています。

「書くべきじゃなかったものを、書いてはいけないものを書いちゃったなという思いはずっとあったんです。中にはあの小説が一番好きだという人もいて、それはそれで嬉しいんですけれど、自分ではどうしても納得できなかった。」

作者はこのように語っていますが、私は、あの小説が一番好きだという人に入るようです。

この作品は単行本化されず、『村上春樹全作品』にも入っていませんので、雑誌でしか読めませんが、『文學界』の1980年9月号は、神奈川県立図書館で所蔵しています。貸出しはできませんが、来館されれば手に取って読めますし、複写もできます。

1991年の『文學界』の増刊号『村上春樹ブック』の中でも、この作品について「あれは失敗だった」と作者自身が語っていますが、本当にそうなのでしょうか。まずは手に取って、ご自分の目で確かめてみてください。

追記

この原稿を書いたのは令和4年のことです。あれから何か月か経った3月1日に、村上春樹氏が新作を発表すると聞き、その題名に驚かされました。なぜ?という気持ちとワクワクする気持ちでいっぱいです。

作者自らが失敗と言っている文学界掲載の『街と、その不確かな壁』、それに手を加えて再構築された『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。そしてまた『街とその不確かな壁』へ。ここでは一体どんな物語が紡がれるのでしょうか。

新作は4月に発売されるようですが、まだ時間があります。神奈川県立図書館所蔵の作品を読んで、新たな挑戦を静かに待つというのはいかがでしょうか。


『街と、その不確かな壁』 村上春樹著 文藝春秋 『文學界』1980年9月号所収 34巻9号

資料コード300390986 請求記号 Z910.5 9

【参考資料】

『風の歌を聴け』 村上春樹著 講談社 『群像』1979年6月号所収 34巻6号

資料コード 302240692 請求記号 910.5 69

『風の歌を聴け』 村上春樹著 講談社 1979年

資料コード:12194932 請求記号:F1L/M111-1 OPAC(所蔵検索)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 村上春樹著 新潮社 1985年

資料コード:12766498 請求記号:F1S/M111-6 OPAC(所蔵検索)

『村上春樹特別インタヴュー「物語のための冒険」』 文藝春秋 『文學界』1985年8月号所収 39巻8号

資料コード:300391554 請求記号:Z910.5 9

『村上春樹全作品1(1979-1989)』 村上春樹著 講談社 1990年

資料コード:20679601 請求記号:913.68Y/4/1 OPAC(所蔵検索)

『村上春樹ブック』 文藝春秋 『文學界』1991年4月増刊号 45巻5号

資料コード:300613536 請求記号 Z910.5 9



(県立図書館職員:影を引きずる者)