14三浦崎
三、歌と観光―江ノ島・鎌倉・横須賀
東海道の発展により、海沿いの地は多くの旅人が訪れ、和歌を詠み、広く紹介されていました。特に鎌倉は今も昔も観光地として名高く、神社仏閣から川、山、崎とあらゆる地名が和歌と共に読み継がれてきました。
東海道管轄下の上総、下総、常陸の国々への往来には、三浦半島の走水(横須賀市)から海を渡ったそうです。そのため、「三浦崎」は走水あたりをはじめとした三浦半島の海浜一帯を指すようです。ここを往来する人は多く、逗留する旅人もいたことでしょう。
次に挙げる歌は、純情な相模国の恋の歌として知られていました。
芝付きの三浦崎なるねっこ草
相見ずあらば吾(あれ)恋ひめやも
(万葉集巻十四 3508 よみびとしらず)
【意味】
芝付の三浦崎に群生する翁草が根付くように寝た。もし寝ることもなかったら、こんなに恋しくはないものを。
ほくほくとけふも三崎へのぼり馬
粟畑こえていななきにけり
(「あらたま」齋藤茂吉)
潮引きて崎のするどくなりまさり
朝あをあをと松野風吹く
(「死か芸術か」若山牧水)
見桃寺の鶏(とり)長鳴けりはろばろと
それにこたふるはいづこの鶏<
(「雲母集」北原白秋)
『北国紀行』(前掲)では、芦名の名が出てきます。
難波なる芦名は聞けど影も見ず
三浦が崎の波の下草
(「北国紀行」尭恵)
【意味】
難波の葦と同じ名は聞くが影も形も見えず、ここ三浦が崎では波の下は海藻ばかりだ。
「相模の海」は、大磯の付近から湘南の辺り、三浦半島の相模湾沿いまで広く歌われていました。
風強くいなさをふけばみるかぎり
空に波たつ相模の海は
(「生くる日に」前田夕暮)
夏はきぬ相模の海の南風に
わが瞳燃ゆわがこころ燃ゆ<
(「酒ほがひ」吉井勇)
相模湾越しにのぞむ富士山も旅人の心を打ったことでしょう。詩人の堀口大學は、戦後疎開先から温暖な葉山へ移り住み、以来、八十九歳で亡くなるまで、この地で暮らしました。
森戸の夕照
夕焼けや森戸の浜の富士高く
(「虹消えず」堀口大学)