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トピックスのとびら

 図書館には図書、雑誌、地域資料、新聞、視聴覚資料、インターネットといったたくさんの情報のとびらがあります。
 そのとびらを開いて、時事的な話題を複合的な視点から紹介します。

No.107 生糸と女工と開港と(2014年6月発行)

 2014年4月26日、ユネスコの諮問機関イコモス(国際記念物遺跡会議)が富岡製糸場と絹産業遺産群の世界遺産登録を勧告しました。富岡製糸場は、明治政府が殖産興業の一環として、莫大な費用をかけて設置した日本初の機械製糸工場です。原料、技術のすべてが国内で自給できた生糸は当時の貴重な外貨獲得手段であり、日本の輸出の大半を占めていました。大正、昭和にかけて産業が急速な発展を遂げ、貿易が飛躍的に拡大した後も、生糸の輸出額は総額の3分の1以上だったほどです。しかし、生糸は日本の近代化を支えた一方で、その裏に女工たちの悲劇も伴っていました。
 時代の花形だった生糸貿易を独占していたのが、開港した横浜港です。生糸は全国の生産地から町田、八王子を経て横浜港へと集められました。そのルートは「横浜のシルクロード」と呼ばれており、昔の生糸検査所が現在は横浜第二合同庁舎として使われているなど、今もなお当時の面影を残しています。

図書のとびら

『女工哀史』
細井和喜蔵著 岩波書店 1954年 請求記号:イ36ホ(2257283)県立書庫岩波

 女工と聞くとこのタイトルを思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。13歳でたった一人の身内だった祖母を失い、小学校をやめて紡績工場の下級職工として働き続けた無名の一労働者、細井和喜蔵が、女工たちの置かれた厳しい現実を実体験に基づいて描いた作品です。長野生まれの小説家藤森成吉の手を借りて、『女工哀史』はまず雑誌『改造』に発表され、1925年には単行本として刊行されました(後に岩波文庫)。「哀史が出たから、もう死んでもいい」と藤森成吉に語り、初版が出てからわずか一か月後にはこの世を去った著者渾身の作品は戦後も版を重ね、多くの人に読み継がれています。

『あゝ野麦峠』
山本茂美著 朝日新聞社 1968年 請求記号:915.9 312 (12027249)書庫9門

 「野麦峠を越えた老女を通して明治百年を肌で感じ取ろう」と、山本茂実はかつて製糸工場で働いたことのある女たちを訪ね歩き、彼女たちの話を丹念に聞き取りました。本書は『女工哀史』に並ぶ、女工たちの真に迫ったルポルタージュになります。後に大竹しのぶ主演で1979年に映画化され、「糸ひき稼ぎ」のために過酷な労働に耐える少女たちの姿は人々の涙を誘いました。国鉄高山線が開通する1934年まで、飛騨と信濃(岐阜県と長野県)を結ぶ重要な交通路だった野麦峠。その峠を吹雪の中、若い女たちが50人、100人と群れをなして越えていく様子が目に浮かぶようです。

『日本婦人問題資料集成 第3巻=労働』
赤松良子編集/解説 ドメス出版 1977年 請求記号:367 110 3(11045945)書庫3門

 全10巻で構成された『日本婦人問題資料集成』には、婦人問題に関する様々な資料が分野ごとに収録されています。第3巻には婦人労働に関する資料が収録されており、女工についても当時の労働時間や賃金、それぞれの会社の職工規則などを知ることができます。たとえば岡山紡績会社の1892年に定められた規則では、女工の年齢は14歳以上、日給は一番低い11等で4銭(等外は「適宜之ヲ定ム」とあり)、1等の上級で20銭、さらにその上の技女は25銭が支給されるとなっています。貧しい農家にとって、娘が「糸ひき」で稼いでくる給金は貴重な現金収入となっていました。

『官営富岡製糸所工女史料』
高瀬豊二著 たいまつ社 1979年 請求記号:367.9L 21(11052487)書庫3門

 戦前戦後を通じて労働運動、農民運動に関わり、富岡市議を3期務めた著者が、富岡製糸場(後に富岡製糸所など度々の名称変更あり)の工女について各出身県ごとに資料をまとめています。日本で最初の大規模な女子工場労働を生みだした富岡製糸場では、政府が各地方に積極的な募集をかけた上、廃藩置県によって多くの氏族が職を失ったという背景も重なり、当初は工女の多くを士族の子女が占めていました。全国から集められ、女工ではなく「工女」と呼ばれた誇り高き彼女たちは、富岡製糸場で最先端の技術を習得し、その技術を国元に帰って指導者として広める役割を担っていたのです。

『現代中国女工哀史』
レスリー・T・チャン著 栗原泉訳 伊藤正解説 白水社 2010年 請求記号:366.38 203(22404438)公開

 驚異的なスピードで発展を遂げている中国の製造業を支えてきたのは、民工と呼ばれる農村出身の出稼ぎ労働者たちです。著者は2004年から約3年をかけて、広東省の工業都市・東莞(トンクアン)で働く若い女性を中心に取材し、本書にまとめました。民工の劣悪な労働条件は大きな問題となっていますが、1990年代との大きな違いは携帯電話によって情報化が進んでいることです。新世代の出稼ぎ労働者である彼女たちは情報を交換し、よりよい条件を求めて職場を頻繁に変え、有利な職を得るために自分に付加価値をつける努力を怠りません。「家族のため」よりも「自分のため」という目的意識をもつ現代の女工たちの姿は、かつての女工たちとどう違うのでしょうか。

雑誌のとびら

「富岡製糸場と工女のエートス-和田英(富岡日記)の場合-」
『日本絹の里紀要 』群馬県立日本絹の里 11巻 2008年 p79-88 請求記号:Z630-1

 富岡製糸場で過ごした日々を晩年『富岡日記』として記した和田英(旧姓横田)は、松代藩士横田数馬の次女として生を受けた士族の娘です。1873年3月から翌年の7月頃まで富岡製糸場で働いた彼女の生涯を中心に、元高崎経済大学学長山崎益吉氏が、当時の状況を分かりやすく解説した講演をまとめています。一等工女となった英は松代に帰り、それまで「座繰り」といって繭を煮て取っていた民間の製糸場に、富岡風の蒸気蒸しを導入させます。蒸気蒸しは「座繰り」よりも質の良い繭が取れますが、目方は少なくなってしまう欠点がありました。それでも17歳の少女は蒸気蒸しの良さを主張し、質の良い糸を作って外国の商人に認めさせたのです。そのエートス、精神を山崎氏は讃えています。

「近代日本における繊維工業女性労働者の募集方法について-女工と労務供給請負業」
『人文・自然研究』一橋大学大学教育研究開発センター 6号 2012年 p180-267 請求記号:Z051-858

 日清戦争後、日本の製糸業は大きく発展します。それを支えたのは、明治初期とは異なり、農村の小作農や貧農の子女たちといった、家計補助を目的とした出稼ぎ労働者たちでした。しかし、少しでも現金収入を得たかった貧しい農家と、低賃金労働者を必要とした工場主という構図は自動的にマッチしたのではないと著者である西成田豊氏は指摘しています。繊維女工の募集の多くは、工場主から独立した紹介人・募集人への委託による間接募集という形で行われました。本論文では、これまで深い考察がされてこなかった紹介人や募集人といった人々のはたした役割を明らかにしています。

「第五回適塾講座 日本の工業化・都市化・結核-再考「女工と結核」-」
『適塾』適塾記念会 46号 2013年 p52-64 請求記号:Z372-4

 20世紀初頭より隆盛を誇った繊維産業ですが、当時労働力の圧倒的多数を占めていた女工たちの間には結核が蔓延し、深刻な社会問題となっていました。経済的発展の中で女工の結核死亡率はどのような意味を持っていたのか、そして結核の蔓延においてとりわけ大阪はどのような役割を担ったのかについて、花島誠人、友部謙一両氏が考察しています。繊維産業は大阪の地に経済的繁栄をもたらしました。しかしその急速な発展のコストは、結核リスクという形で労働者が負担していたのではないか、さらにそのコストは出稼ぎ女工の帯患帰郷を通じて、全国の農村地域に分配されたのではないかと指摘しています。

神奈川資料のとびら ~かながわ資料室の本を紹介~

『明治十六年生糸商况年報』
藤本菅太郎編 横濱貿易商會 1884年 請求記号:K63.1 6(50279124) かながわ資料室 館内閲覧のみ

 1883年の生糸貿易をめぐる状況について詳しく報告した文章です。この年の生糸価格は一層の安値を記録しており、商いが非常に厳しいものであったことが分かります。日本の生糸産出高は、気候変動の影響などで前年に比べ減少しました。しかし不景気により国内需要が低下した影響で、逆に輸出高は前年を超過。加えて、不作と伝えられていたイタリア・フランスの収穫が風評よりも良好であったこと、さらに、資金繰りに余裕のない商人が売り急いだことが、価格下落の背景にあると分析しています。

『内外生絲産額及市價累年對照表 附 羽二重市價對照表』
橋本重兵衛著 深川伊都麿 1900年 請求記号:K63 34(50363332) かながわ資料室 館内閲覧のみ

 英國蚕糸鑑定士橋本重兵衛が、1868年から1900年かけての繭の収穫高、生糸輸出数量、市価などの推移をまとめた表です。生糸相場の暴騰、暴落は明治期から激しいものであり、関係者に大きな影響を与えていました。そのため、こうした表によって情勢を把握しようとしていたことが分かります。ちなみに本書の末尾には、六工社社長羽田桂之進殿に進呈するとの旨が橋本重兵衛の署名入りで書かれています。六工社は和田英の出身地、信州の松代にあった製糸工場です。

『大日本生糸商標帖』
編者・出版者・刊行年不明 請求記号:K67.1 33(50280734)かながわ資料室 館内閲覧のみ

 明治時代の輸出生糸商標640種を貼付製本したものです。生糸商標は、製糸業者が輸出向けに生糸に貼り付けしたラベルです。当初日本の生糸貿易では粗製濫造が問題となっており、製糸業者は自社工場の製品を識別させ品質を保証するために商品に商標をつけ、信用を維持しようとしました。手のひらサイズの厚手の紙には、色彩豊かな意匠がこらしてあり、高価な印刷法によって作られていたことが分かります。生糸の一大生産地だった上州・信州のラベルが多く目につきます。

『横浜生糸貿易十二年間概況』
原商店 1896年 請求記号:K67.1 36(50280759)かながわ資料室 館内閲覧のみ

 横浜の弁天通りに店を構え、随一の豪商であった生糸売込問屋・原商店(後に三溪園で知られる原富太郎が受け継いだ会社です)が、1883年から1894年にかけての12年間にわたる生糸貿易の商況についてまとめたものです。冒頭の「生絲貿易ハ我邦ノ富源ナリ」という言葉からは、当時の生糸貿易にかける強い思いが伝わってきます。数々の客観的なデータを提示した上で、そのデータに基づいて丁寧に分析されているので、当時の生糸貿易の状況を詳しく知ることができます。

インターネットのとびら

富岡製糸場デジタルアーカイブス
http://www.tomioka-silk.jp/archive/
 富岡製糸場の貴重な資料を、デジタルアーカイブスとして公開しています。当時の様子を伝える貴重な写真の数々はもちろん、富岡製糸場で当時使用されていた自動繰糸機が現在も稼働している碓氷製糸場の映像も公開されており、自動繰糸機によって繭から生糸がどのようにできるのか見ることができます。また、 富岡製糸場の社宅で生まれ、幼い時期を過ごした志田栄一さんと金久保誠さんのインタビュー映像もあります。