かながわ資料ニュースレター第61号(2017年8月発行)

新着資料から

◆『仙客亭柏琳(せんかくてい はくりん) 翻刻全集』
 仙客亭柏琳作 荒井徹・荒井功 2016年 [K97.54/23]
 江戸後期、相模国磯部村(相模原市南区磯部)に住んでいた農民の戯作者仙客亭柏琳(本名・荒井金次郎1798?-1868)が著した草双紙(くさぞうし)3作品の現代文訳『仙客亭柏琳 翻刻全集』(全1冊)が柏琳の子孫により出版されました。「草双紙」とはさし絵入り娯楽本で、美人画などの作品を主にした木版刷りを和とじ本として出版したものです。
 当時、江戸で大人気だった戯作者の柳亭種彦に認められ、柳亭自身が校閲を含めた監修を手掛けました。翻刻全集には、国立国会図書館などに遺されていた原本3作品(「花吹雪縁柵(はなふぶきえんのしがらみ)」「星下梅花咲(ほしくだりうめのはなざき)」「紫房紋(むらさきぶさもん)の文箱」)の原本(写真版)と、原文、翻刻文、現代文が掲載されています。なかでも「花吹雪縁柵」は、表紙を浮世絵の第一人者だった葛飾北斎、さし絵を武者絵で名を挙げた歌川国芳が描いています。

◆『横須賀鎮守府』
 田中宏巳著 有隣堂 2017年 [K39.31/113]
 昨年4月、旧軍港四市が「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」として日本遺産に認定されました*。「鎮守府」とは明治期に設置され太平洋戦争の敗戦により消滅した日本海軍の地方軍政機関で、上記旧軍港四市に置かれていました。
 本書は明治初期以後の海軍をめぐる状況を読み解くことから始め、横須賀鎮守府設置の経緯から終焉にいたるまでの全体像を紹介しています。横須賀鎮守府の組織について、歴史上に遺してきた足跡と意義を解りやすく著述し、日本史・海軍史・地域史(歴史)の中に位置づけています。
 著者は近代日本軍事史を専門とする横須賀市史専門委員、防衛大学校名誉教授。(有隣新書80)

 *『鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴』旧軍港市日本遺産活用推進協議会 2017年[K39.31/112]

新着のかながわ資料

新着資料の一部をご紹介します。

タイトル 著者名 出版者 出版年 請求記号
超訳報徳記 富田高慶原著、木村壮次訳 致知出版社 2017 K157/703
大山詣り(有隣新書 79) 川島敏郎 有隣堂 2017 K17.64/61
かながわの最初の現代人―旧石器時代のヒトと社会― (神奈川県埋蔵文化財センター) 神奈川県教育委員会 2016 K22/13/2016
関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実(角川ソフィア文庫) 黒田基樹 KADOKAWA 2017 K24/523
神奈川生まれの名字 改訂版 ゆかりの地を探し求めて 田中將浩 鳥影社 2017 K28/391A
畠山重忠資料集 畠山重忠の調査資料 鶴峯旭 2017 K28/480/1
評伝 永井龍男―芥川賞・直木賞の育ての親― 乾英治郎 青山ライフ出版 2017 K28.4/142
平成28年度 県民ニーズ調査  神奈川県県民局くらし県民部情報公開広聴課広聴グループ 2017 K36/819/2016
神奈川建築コンクール第60回記念誌 神奈川建築コンクール実行委員会 2017 K52/99-2/60
横須賀製鉄所 (造船所) 創設150周年記念事業報告書 横須賀市政策推進部文化振興課 横須賀市 2016 K55.31/59
虹色のチョーク働く幸せを実現した町工場の奇跡 小松成美 幻冬舎 2017 K58.21/31
出でよ、地方創生のフロントランナーたち! 城下町から日本を変えるヒント 蓑宮武夫 PHP研究所 2017 K60.7/1
絵図と写真でたどる明治の園芸と緑化秘蔵資料で明かされる、現代園芸・緑化のルーツ 近藤三雄、平野正裕 誠文堂新光社 2017 K62.1/30
災害救援物資物流のあり方検討報告書 神奈川県トラック協会 神奈川県トラック協会総務部防災対策室 2016 K68/584
相模原市新しい交通システム導入基本計画 相模原市 2016 K68.54/15
大佛次郎と猫 500匹と暮らした文豪 大佛次郎記念館監修 小学館 2017 K91.1/102

うちのおたから自慢 『「浅間丸」献立表』
日本郵船株式会社編 1930~1931年 4点(19×27cm)[K68.1 / 136]

 東洋汽船から太平洋線(サンフランシスコ航路)を継承した日本郵船は、金融恐慌の厳しい社会不安のなか3隻の豪華客船を発注しました(1927年)。その内の1隻が浅間丸でした。船客の海上生活を快適にするため、社交室・読書室・画廊・食堂などの主な公室は、イギリス古典様式または一部にフランス近代様式をとり入れていました。
 写真(左)は、1931(昭和6)年8月24日のディナーの献立表です。当館では他にも3点、別の日のディナーの献立表を所蔵しています。司厨長たちは、前もって欧米に派遣され、外国の慣習を学び、船客接待を研究するなど、細心の準備をしました。日本で西洋料理といえば帝国ホテル式が最高級でしたが、日本郵船式も劣らず日本の最高水準を自負していました。
 丁度この時、浅間丸に乗船していた著名な人物がいました。尾崎行雄(咢堂)です。米国のカーネギー財団からの招待で73歳の咢堂は二人の令嬢を伴い、1931年8月13日横浜港を発ちました(「咢堂自伝」)。8月24日のディナーの味はどうだったのでしょうか? 残念ながら「咢堂自伝」には、船上での事は一切書かれていません。ただ、8月29日撮影の写真(右)を載せるのみです。

写真(左)1931年8月24日のディナーの献立表
写真(右)浅間丸船上の尾崎行雄と令嬢たち

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【参考文献】
*1「豪華客船浅間丸」(『神奈川県史 通史編7 近代・現代(4) 産業・経済2』)神奈川県県民部県史編集室 1981年[K21/16-3/7]
*『尾崎咢堂全集』第11巻「咢堂自傳」尾崎咢堂全集編纂委員会編 公論社 1955年[310.8/1/11]

100年前の“観光地” ~横浜貿易新報社選「新避暑地十二勝」より~
【新避暑地十二勝(新選十二勝誌) 選外 杉田】
――「横浜貿易新報」大正3(1914)年7月31日(金)3面

 梅の杉田は今改めて言ふまでもないが、昔は余程文人雅客の間に知られてゐたものと見える、(中略)明治十七年と十九年の三月の両度、畏(かしこ)くも 英照(えいしょう)皇太后陛下並に昭憲(しょうけん)皇太后陛下の此里に行啓あらせられ、親しく御観梅の興を取らせ給ふに至つて梅の杉田は一段の光栄を加えた。然るに惜い事には梅の杉田は今は昔の俤(おもかげ)を余程損して居る、詩作るより田作れといふ実利主義は遠慮もなく此の十里香雲(こううん)村を襲ふて梅園は芋畑となつて、今では僅に妙法(みょうほう)寺境内と其附近の一小洛に残つてゐるばかり、此儘(まま)で押通すと梅の杉田は只の杉田になつて了う〈原文表記のまま〉

 「梅の杉田」と称賛された杉田梅林は、江戸時代に紀行文などで紹介され、明治から昭和初期にかけて観梅の名勝地として知られていましたが、今や妙法寺の近辺(横浜市磯子区杉田5丁目)でしか往時を偲ぶことができません。
 写真①は新聞掲載の1年前に刊行されたもので、当時の様子が見て取れます。左側の茶店には庶民の嗜好品として定着したビールののぼりが目立ちます。キリン、ヱビス、カブトの各銘柄が判読できます。現在の妙法寺の照水梅は写真②で、お堂は建て替えられ、照水梅もスリム化しています。
 新避暑地十二勝(新選十二勝誌)の紹介は今回で終了します。次号からは第46号(2015年2月)で一旦終了しました「神奈川の祭り~昭和の記録写真から~」を再開してご紹介します。

写真① 杉田(妙法寺)照水梅(『神奈川縣写真帖』所収)1913年当館蔵[K27/8]

写真② 現在の妙法寺の照水梅 *2017.8撮影

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