かながわ資料ニュースレター第59号(2017年4月発行)

新着資料から

◆『秋の特別展 相模人形芝居の世界』
 昭和女子大学光葉博物館 2016年 [K77/53]
   相模人形芝居は、人形浄瑠璃が江戸時代末頃に日本各地で「人形芝居」として定着し、旧相模国地域でも娯楽や祭礼での奉納などで演じられ継承されてきたものです。現在、活動を行っている五座(長谷座・林座・下中座・前鳥座・足柄座)は国や県から無形民俗文化財の指定も受けています。
 本書は、2016年秋に昭和女子大学光葉博物館で開催された特別展「相模人形芝居の世界」のカタログです。内容は相模人形芝居の資料集であり、五座の歴史、各座について代表的上演演目の登場人形(カラー写真)、活動状況、主な「かしら」の白黒写真・リストなどで親しみ易く格好の入門書となっています。

◆『横浜・鶴見沖縄県人会史-鶴見沖縄県人百年の歩み-』
 横浜・鶴見沖縄県人会 編・刊 2016年 [K36.11/36]
 横浜市鶴見周辺は明治期後半から工場用地の埋立などが盛んになり、仕事を求める沖縄からの移住が増えた経緯があります。今日、鶴見は「リトル沖縄」と呼ばれ、「沖縄を体感できる町」として広く県内外に知られています。鶴見で培ってきた県人達の大切な記憶を風化させまいと、これらの財産を後世の人達に残し、将来の生きた記録として百年の歩みを企画から11年の歳月を要し刊行に漕ぎ着けました。
 昨年、県人会では約半世紀ぶりに青年部が復活したそうです。本書を制作する過程で見つかった当時の青年部の機関誌などが、設立を後押ししたと聞きました。また、県内には鶴見のほか川崎にも沖縄県人会があります*。              *『川崎の沖縄県人70年の歩み』神奈川県沖縄協会編 川崎沖縄県人会刊 1982年[K28.21/26]

新着のかながわ資料

新着資料の一部をご紹介します。

タイトル 著者 出版者 出版年 請求記号
レンズが見たひらつか 2 1976-2016 平塚市博物館 平塚市博物館 2016 K06.62/28/2016-7
"幕末明治 新聞ことはじめ -ジャーナリズムをつくった人々-" 奥武則 朝日新聞出版 2016 K07/62
四千年のパワースポット霊峰大山 石井政夫 銀の鈴社 2016 K18.64/41
90歳からのメッセージ 横浜の戦中・戦後を生き抜いて 岩井昭 東銀座出版社 2016 K28.1/616
三浦道寸(中世武士選書 第36巻) 真鍋淳哉 戎光祥出版 2017 K28.3/25
母のアルバム 伊藤政子・田中典子 春風社 2016 K28.33/18
帯の伊勢丹 模様の伊勢丹-ファッションの伊勢丹創業者・初代小菅丹治- 飛田健彦 国書刊行会 2016 K28.52/54
川崎あるある 水野嘉男 TOブックス 2016 K291.21/220
ブラタモリ 5 [熱海、小田原ほか] NHK「ブラタモリ」制作班 KADOKAWA 2016 K291/850
相模原障害者殺傷事件 -優生思想とヘイトクライム- 立岩真也・杉田俊介 青土社 2017 K36.54/45
生きたかった -相模原障害者殺傷事件が問いかけるもの- 藤井克徳ほか編 大月書店 2016 K36.54/46
軍港都市史研究Ⅳ 横須賀編 上山和雄編 清文堂出版 2017 K39.31/111
横浜みどりアップ計画 平成27年度事業報告書 横浜市環境創造局みどりアップ推進課 横浜市環境創造局みどりアップ推進課 2016 K51.1/212/2016
お蚕は歌う -甦れ、明治末期の「養蚕唱歌」平成の世に- 篠﨑洋子編・著 篠﨑洋子 2016 K63.1/43
箱根登山バス東海バス BJエディターズ 2016 K68/437A
デゴニものがたり 飯田隆幸 小田原鉄道歴史研究会 2016 K68/577
八木重吉-さいわいの詩人(うたびと)-展 町田市民文学館ことばらんど 町田市民文学館ことばらんど 2016 K91/120

うちのおたから自慢 『大日本博覽繪』※部分
石原徳太郎著・出版1889年[K291/129]

 風景写真が定着する以前の一時期、銅版画による風景スケッチ画集が制作されました。明治20年代(1887-1896年)のことです。本書はその一つで、明治期特有の便覧の性格を有し、官公庁舎、銀行、農家の邸宅、造り酒屋(醤油屋)、旅館などが描かれ、当時の社会の様子がわかる歴史資料です。
 他の所蔵館は神奈川県立公文書館や国立国会図書館で、特に国立国会図書館ではデジタル化してインターネット公開され、容易に見ることができます。『横濱銅版畫』*によれば、同様の銅版画集は10冊を超えるとあり、神奈川県立公文書館では掲載された旧家から寄託を受けた『日本博覧図 第十編』も収蔵しています。また掲載された旧家には印刷時に使用した銅版が遺されるケースもあります。
 写真は、橘樹郡北綱島村(現:横浜市港北区綱島台)の飯田助太夫本宅図です。飯田家は江戸期を通じて北綱島村の名主を代々務めた旧家で、敷地に周濠を持つ土豪的屋敷構えが見て取れます。邸内には氷製造場を1棟設け、真金町(現:横浜市西区真金町)に出店する製氷業者でもありました。また、右手奥の裏山の墓所には「先祖五百五十回忌塔」の碑が描かれています。飯田家が由緒ある家柄であることを示しています。

大日本博覽繪

『大日本博覽繪』

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【参考文献】
『横濱銅版畫』神奈川県立博物館編 有隣堂1982年[K72.1/104]

100年前の“観光地”  横浜貿易新報社選「新避暑地十二勝」より
【新避暑地十二勝 第12位 磯子】
――「横浜貿易新報」大正3年7月28日(火)7面

 本社主催の磯子海水浴場が地を磯子に相し創めて大更衣処を設けたる明治四十五年の夏 迄は磯子の地名すら知る人稀なりしに一(ひと)度(た)び海水浴場起りてより以来屏風ケ浦の称より も寧ろ其一小字なる磯子の名一時に喧伝せられ、本紙亦夏季に至れば連日磯子を世に紹 介して倦むことなく其形勝を説く亦詳細なりき
編集長足下、今や県下十二勝の一として改めて磯子を天下に紹介せんとして筆を余輩に 下さしむ、屋上に屋を架せざる可らざる余輩、豈(あに)様(よう)に拠りて胡蘆(ころ)を図(えが)くの感に堪えざら んや莫遮、海水浴を主とし、磯子の地を客として観たる従来の態度を変じ主客を転じて 観察せば復更(あらた)めて耳目を新たならしむるに足る莫(な)からん哉 〈記事冒頭部分、原文表記のまま〉

 神奈川県内の海水浴場は、大磯を皮切りに三浦半島西海岸や東京湾岸に次々と誕生していきました。磯子海岸も1912年(明治45)に横浜貿易新報社が大更衣所を設け、磯子海水浴場がスタートしました。近隣では間門・根岸・階楽園・杉田の各海水浴場が昭和にかけてできました。
横浜貿易新報社自身が売込みに力を入れていた「磯子」が新避暑地十二勝の第12位にギリギリ滑りこみました。記事中に紹介している「料理店を兼ねた旅館」には登場しませんが、写真①の境屋も海水浴客をもてなしたお休み処でした。
 戦後、横浜市は磯子海岸のある根岸湾の埋立事業計画に着手し、本格的な埋立が始まりました。写真②は1963年(昭和38)撮影の国鉄(現JR東日本)根岸線(磯子駅)や日清製粉の工事風景です。根岸線は翌年桜木町から磯子まで開通し、1973年には大船までの全線が開通しました。

「磯子海岸境屋繪葉書」当館蔵[K68.1/80] *撮影時期不明

「磯子海岸」当館蔵[(視聴覚移管写真)K44] *1963.9撮影

現在の磯子の海 *2017.4撮影

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