かながわ資料ニュースレター第52号(2016年2月発行)

新着資料から

◆『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』
 畑中章宏著 晶文社 2015年 [K63/83]
    これは、「はじめに」で著者が「蚕という虫が日本人とどのようにつきあい、日本社会のなかで、どのように位置づけられてきたかをみていくものである」と述べているように、古代から近代まで、歴史だけでなく信仰・風俗にもわたって、蚕(養蚕)と人間の関係を書いた本です。『日本書紀』や『古事記』に見える蚕の記述や、蚕の天敵・鼠の害から守ってもらうための蛇や百足、猫の信仰に関する記述もあります。
  第4章「東京の絹の道」は、横浜に運ぶ絹を集積した地である八王子とその周辺を歩いた紀行文になっています。養蚕地帯の隆盛をしのばせるような遺跡(供養塔・石像や神社、寺、屋敷跡など)や風景を、写真とともに紹介しています。

◆『田園都市と分譲地 ~私鉄沿線の都市開発』
 越澤明著 住宅生産振興財団 2015年 [K51/540]
  この本は、都市計画等の研究者である著者の、私鉄沿線の分譲地についての文章をまとめたものです(一部は引用転載論文)。前著『田園都市と田園郊外』※1同様、写真や図版が豊富で、特に口絵や表紙にカラーで掲載されている著者所蔵の貴重な資料は目を惹きます。
  第5章「神奈川県における沿線開発と分譲地」は、京浜電鉄(川崎・鶴見)・松竹(大船)・菅原通済(鎌倉山)の分譲地について書かれています。鎌倉山は鉄道ではなく有料道路と一体で開発された高級住宅地で、第一期の分譲は1930(昭和5)年に開始されました。その後事業を吸収した京浜電鉄が1971(昭和46)年に有料道路上空を活用して建設したのが、湘南モノレールです。その日本最初といわれた有料道 路は、1985(昭和60)年に鎌倉市に移管され※2、現在は市道として利用されています。
  ※1『田園都市と田園郊外』越澤明著,住宅生産振興財団,2015年[K51.55/4]
  ※2 藤沢市域分は1988(昭和63)年に藤沢市に移管。(『神奈川新聞 湘南ひがし版』1988.5.28.5面)

新着のかながわ資料

新着資料の一部をご紹介します。

タイトル 著者 出版者 出版年 請求記号
耳庵 松永安左ヱ門 小田原市郷土文化館2015K06.7/20/2015-9
歴史を歩く 深掘り神奈川泉秀樹PHP研究所2015K21/123
鎌倉将軍・執権・連署列伝細川重男吉川弘文館2015K24/511
鎌倉考古学の基礎的研究河野眞知郎高志書院2015K24.4/287
田中休愚「民間省要」の基礎的研究斉藤司岩田書院2015K25.21/23
ブレンワルドの幕末・明治ニッポン日記横浜開港資料館日経BP社2015K26/121
周布公平関係文書尚友倶楽部芙蓉書房出版2015K28/458
平野恒(シリーズ福祉に生きる68)亀谷美代子大空社2015K28.1/610
葉山佳曲-Excellent of Zushi & Hayama岡田満用美社2015K28.34/27
幕末を旅する村人 浜浅葉日記による辻井善彌丸善プラネット2015K291/833
茅ヶ崎Walker KADOKAWA2015K291.53/33
神奈川朝鮮学校資料1,2巻(全2冊)大石忠雄編纂緑蔭書房2015K37/984/1,2
失われた北川湿地三浦・三戸自然環境保全連絡会サイエンティスト社2015K51.33/19
横濱市民酒場グルリと-はま太郎の横濱下町散策バイブル 星羊社2016K67.1/354
ぴあ平塚食本 ぴあ2015K67.62/22
南武線・鶴見線 街と駅の1世紀生田誠アルファベータブックス2015K68/556
空撮三浦半島・湘南・西湘 浦賀水道 相模湾釣り場ガイド コスミック出版2015K78/305
横浜港ものがたり 文学にみる港の姿志澤政勝有隣堂2015K91.1/100

うちのおたから自慢 『史蹟名勝めぐり』
鈴木龍泉著、1832年(1939年?) [K291.1/89]

 当館には、手書き資料を製本したものがいくつかあります。どのような事情で当館に受け入れられたのか、今となっては不明なものも多いのですが、今回はそのなかの1冊をご紹介します。
 「日本郵船株式会社」と印刷された和紙の原稿用紙に筆で書かれた和綴じ本です。ところどころ筆跡が違うので、鈴木氏の文を何人かで写した記録でしょうか。
 第一回の書き出しに、「文部省の史蹟名勝天然紀念物保存協會々員から成る神奈川支部が主催となり史蹟名勝めぐりを企て、その第一回を昭和七年二月十四日に挙行す。」と、いきさつが書かれています。参加者は「第二中学校教師石野瑛、史蹟調査會嘱託中山毎吉、縣社會兵事課長谷川、山田の二氏」「會員約二十名」とあり、なかなか盛況だったようです。日程にしたがって史蹟の説明なども書かれてあり、この日は弘明寺あたりを徒歩で回り、昼食をとる頃に雨が本降りになってきたため「豫定の杉田行を止めて解散す」。当時の杉田は梅の名所、2月ですから満開の梅を見に行くつもりだったのでしょう。
 各回の最後には、かかった費用が書いてあります。たとえば、第九回の大山(阿夫利神社・大山寺)の費用は「合計金弐円七拾貮銭」で、内訳には「二〇(銭)會費」「六〇(銭)平塚、大山間自働車往復」「一五(銭)記念写真」と並んで「五〇(銭)崎陽軒シウマイ」とありました。崎陽軒のシウマイが、交通費などと比べるとお高いものだったのだなということがわかります。
 参加者として名前が挙がっている石野瑛氏も中山毎吉氏も、郷土史家として有名な人で著作もありますが、著者の鈴木龍泉氏については残念ながらどのような人なのかわかりません。ただ、当館にはもう1冊、『濱の名所』というもの(こちらも手書き)も入っていて、これは『川柳みなと』という雑誌に連載された記事の原稿をまとめたものです。その『川柳みなと』の連載初回の編輯後記を見てみると、「横濱に居て横濱のことをあまりにも知らな過ぎるので、その道の権威鈴木龍泉氏を煩はして、(以下略)」という説明がありましたので、横浜の郷土史家だったと思われます。

「史蹟めぐり」
『史蹟名勝めぐり』より 右:第11回の最後に費用の記載あり 左:第12回、雪で会が延期になったと記している

【参考文献】
『川柳みなと』第1巻第10号,1931年 *横浜市立図書館所蔵
『濱の名所』鈴木龍泉著,1931年[K291.1/88]

100年前の“観光地”  横浜貿易新報社選「新避暑地十二勝」より
【新避暑地十二勝 第5位 三浦三崎】
――「横浜貿易新報」大正3年7月18日(土)7面、同19日(日)7面

 三浦半島の先端にある三崎の、交通の便に対する嘆きは記事の中で次のように書かれています。(注:記事中では三崎を擬人化して「吾輩」と称している。引用は原文のママ。)
 併しながら吾輩は甚だ遺憾とする事が一つある。それは交通なるものが吾輩に対して頗る冷胆なことである 成程東京からは汽船が来る、朝七時に向ふを出て十一時半には吾輩を訪問する。けれども其船なるや粗末千万で、都の方々に対して挨拶のしやうがない、(中略)但し夏季は七月十二日から昼航と称して東京を午後三時に出帆、晩の八時に港に這入る、之れには特別室、電気等の設備があつて、特別室四十銭、普通室廿一銭、定期船は上下の差別なく廿五銭である。陸上に至つては殆ど問題にならぬ。横須賀から約一里の間は乗合自動車で、其跡は乗合馬車か人力車に乗らなければならない、里程は四里廿四丁許りだが、山や阪を越えるのだ、時としては約三四時間は費からう。
横須賀から浦賀までの車代は40銭、浦賀からの馬車は約58銭。陸上交通は、汽船に比べると時間もかかるし料金も高くついたようです。このような土地柄から電車の開通は長く待たれたもので、昭和41(1966)年7月に京浜急行電鉄が三浦海岸駅を開業したときは、大変な歓迎ぶりでした(昭和50年に三崎口駅まで延伸)。
 しかしその頃になると、大正6(1917)年から始まった漁港修築工事で旅館のすぐ前まで広がっていた海岸は埋め立てられ、三崎のあたりは海水浴で遊べるような浜ではなくなっていました。今では“まぐろの町”として、食を中心に観光客の関心を集めています。

歌舞島より(絵葉書)
歌舞島より
三崎名所の一つ・歌舞島からの風景 上:西を望む-遠景に富士 *参考文献①より
                 下:南を望む-西側も埋立地 *撮影は2016.2

【参考文献】
①『三浦半島三崎の風光(絵葉書)』鯛三丸百貨店,昭和初期[K68/545]
②『目で見る三浦市史』三浦市,1974年[K21.33/4]
③『京急電鉄各駅停車』矢嶋秀一著,洋泉社,2015年[K68/545]