かながわ資料室ニュースレター第40号(2014年2月発行)

新着資料から

◆『大磯学 自然、歴史、文化との共生モデル』  
伊藤嘉一[ほか]編 創森社 2013年 [K291.61/122]

  大磯は古来より交通の要衝であり、相模国府や大磯宿が置かれました。また気候が温暖なことから、海水浴発祥の地となったり、伊藤博文や吉田茂、島崎藤村が居を構え、新島襄が療養した所でもあります。本書はこれらについて詳細を語るとともに、広く知られていないエピソードについても触れています。
  例えば国指定無形民俗文化財である「大磯の左義長」は、元々「セエトバレエ」と呼ばれていましたが、伊藤博文の側近がどんど焼きの北陸・東海・近畿以西の名称である左義長を使い出して広まったということです。また海水浴は、医療としてのタラソテラピーから始まったという話も紹介されています。
 大磯の名所の一つに西行が歌を詠んだ鴫立沢がありますが、「『鴫立庵』は現在の場所ではなく、数丁も川上で庵の附近にはたくさんの塔婆が立っていて『死木立沢』と呼ばれていたという。」との意外な伝承についても明かされています。

◆『一九四五年鎌倉と米軍機による空襲』
藤澤茜編著 藤間雄蔵 2013年 [K72.53/16]

  鎌倉はアジア太平洋戦争において、ほとんど空襲を受けませんでした。しかし戦争の影響がなかった訳ではなく、戦争末期の鎌倉の人々は、始終上空を通過する米軍の戦闘機に怯え、空襲警報に眠れぬ夜を過ごし、高射砲弾の破片による被害を受け、特高警察や憲兵による厳しい思想弾圧を受けていました。本書はそうした鎌倉の様子を、大佛次郎、高見順、島木健作、吉野秀雄という四人の文士が残した日記を中心に、多くの証言や体験記によって再現したものです。
  直接爆撃されなかったことで、鎌倉には終戦時まで日常の暮らしが存在した一方、東京や横浜の大空襲の情報などが刻々と伝わり、不安な毎日が続いていました。「こういう日々というのは、我々でさえはっきり飲み込めぬのだから、後世の平和の時代の人々には想像もつくまい。」という大佛次郎の『敗戦日記』の言葉に、現在の平和の有り難みを感じずにはいられません。

かながわ資料室の新着資料

かながわ資料室の新着資料の一部をご紹介します。

タイトル 著者 出版者 出版年 請求記号
武家の古都「鎌倉」を歩く日本の歴史と文化を訪ねる会祥伝社2013K21.4/37
鎌倉遺文研究 第32号鎌倉遺文研究会吉川弘文館2013K27/75/32
曾祖父覚三岡倉天心の実像岡倉登志宮帯出版社2013K28.1/585
足利尊氏と関東清水克行吉川弘文館2013K28.4/130
どの子も育つ保育実践相馬範子東洋書店2013K37.13/169
てらこや教育が日本を変える森下一成文堂2013K37.4/142A
戦後新教育・「実力の検討」実践資料集 第1巻 不二出版2013K37.811/1/1
すべては学生のために鶴蒔靖夫IN通信社2013K37.92/87
海軍工廠からの証言高橋照雄日本文学館2013K55.31/53
一流を育てる秋山利輝現代書林2013K58.1/66
江ノ電10キロ15駅の小旅行源明輝オークラ出版2013K68.4/52
箱根駅伝 勝利の方程式生島淳講談社2013K78/279
俺たちの川崎ロッテ・オリオンズ ベースボール・マガジン社2013K78.21/50
崖っぷち社長の挑戦眞壁潔草思社2013K78.62/23
小林一三と松永安左エ門阪急文化財団逸翁美術館阪急文化財団逸翁美術館2013K79/38
ハーバーテイルイトウユーイチ文溪堂2013K97/167
二宮金次郎に学ぶ生き方中桐万里子致知出版社2013K157/673
近代西相模の報徳運動早田旅人夢工房2013K157/674

コラム・かながわ・フォーカス

[神奈川の祭り ~昭和の記録写真から~]

≪包丁式≫…横浜市西区(伊勢山皇大神宮)

 ◆写真撮影日:昭和38年5月15日 [請求記号:K20,K37]

【解説】
  包丁式は、神奈川県全調理師協会が毎年、伊勢山皇大神宮の例大祭に合わせて行っている儀式で、材料 に全く手をふれず、包丁と箸だけで調理するのが特徴です。素手を使わないことで食品衛生の実践や調 理師の心構えを示し、さらに食物への感謝の気持ちを込め、一年の無事と業界の繁栄を祈願する行事です。 儀式の起源は古く、平安時代に光孝天皇の命を受けて、側近の四条山陰中納言藤原朝臣公が包丁のおき てを決めたのが始まりと伝えられます。
  写真の様子は屋内ですが、近年は拝殿前にテントを設置して特設の式場を作り、大きなまな板を据えま す。昼ごろに開式され、笙や笛による雅楽の演奏の中、まず浄めの儀式が行われます。包丁を握るのは、古装束を着た県内の割烹やすし店の板前で、四条流の作法に則って魚をさばきます。使用する箸は「まなばし」と呼ばれ、真菜箸または俎箸と書きます。材料の魚は鯉が多く、年によっては黒ダイやマナガツオも使われます。10分~30分位で、式題に沿った形に切り身が並べられます。
  式題は年によって異なり、「長久之鯉」や「長命之鯉」ならば“長久”や“長命”の二文字の形に魚が並べられ、「御幣の鯉」や「砂魔之兜」ではそれぞれ御幣や兜の形に仕上げられます。作品は、直ちに神前に奉納されます。
  当日は、業界の関係者や氏子、多くの参拝客が、無駄のない巧みな包丁さばきをじっと見守ります。

まな板開きの写真
写真1
式に先立ち、まな板開き、
まな板清めなどの下準備
が行われる。
装束に着替える写真
写真2
包丁を握る奉仕者は、直垂
に、三位(さんみ)の冠と
いう公家の装束を着る。
包丁を構える写真
写真3
右手に包丁、左手に金製
の長い箸を持ち、材料に
直接手を触れずに、魚を
さばく。
尚武の鯉の写真
写真4
決められた式題の形に、切り
身が並べられる。撮影された
年の式題は「尚武(しょうぶ)
の鯉」となっている。

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【参考文献】
『手を触れず鯉料理 伊勢山皇大神宮で庖丁式』 朝日新聞1976年5月16日朝刊横浜版20面
『古式ゆかしく包丁式 伊勢山皇大神宮で板前さん』 神奈川新聞1979年5月16日朝刊13面
『千年余の伝統いまに 伊勢山皇大神宮で包丁式』 神奈川新聞1983年5月16日朝刊14面
『コイをさばき奉納 包丁式 伊勢山皇大神宮で』 神奈川新聞1993年5月16日朝刊TODAYかながわ版19面
『王朝しのぶ包丁式 伝統の技 横浜』 神奈川新聞1994年5月16日朝刊全県版18面

(兼松 記)

コラム・かながわ あの人・この人

稲毛 重成【いなげ しげなり】 生年不詳 ― 元久2(1205)年没

  鎌倉時代前期の武士。
  秩父平氏の一族で、父は小山田有重といい、妻は北条時政 の娘です。のちに武蔵国橘樹郡稲毛荘(川崎市高津区・中原 区・宮前区附近)を領して稲毛三郎と号します。
  治承4(1180)年に源頼朝が挙兵した際は平氏方でしたが、頼朝が武蔵に入ると源氏方に帰順します。元暦元(1184)年 に木曽義仲討伐で功を立てたとされ、平氏との戦いや奥州征伐に参加します。建久元(1190)年の頼朝上洛では先陣の随 兵となります。また建久6(1196)年の2度目の上洛に従った帰り、美濃国で妻危篤の報を受け、頼朝に駿馬を賜り3日 で戻ったとされます。程無く妻は他界し、重成は悲しみから出家して道全と号し、稲毛入道・小沢入道と呼ばれました。 建久9(1199)年に妻追善のため相模川に橋をかけた際、臨席した頼朝が帰路に落馬し死去したといいます。元久2(1205)年に、 畠山重忠が謀反の疑いで誅殺されますが、翌日になって謀反は偽りであり、畠山氏に恨みを持つ平賀朝雅が牧の方 (北条時政の妻)に讒訴(ざんそ)した結果、時政と重成が共謀して重忠を殺めたとして、重成も鎌倉にて誅殺されます。
 重成が城主であった桝形山城に近い広福寺(川崎市多摩区)は現在、武州稲毛七福神の大黒天を祀っています。境内には重成の墓と伝えられる五輪塔がありますが、南北朝 ~室町初期の作と見られ別人の墓と考えられています。本堂には木造稲毛重成坐像(桃山時代作)もあります。
 また現在、鶴見七福神の毘沙門天を祀る東福寺は古くから子求めの祈願寺として名高く、堀川天皇が祈願して鳥羽天皇を得た際、勅願にて子生山と号しました。跡継ぎの無 かった重成も信仰して男子を授かったので、多くの土地を寄進したと『江戸名所図会』に記されています。

大江傳記鎌倉見聞志
「稲毛三郎牧の方にへつらふ事」
『大江傳記鎌倉見聞志 巻之24、25』
明龍児箸[請求記号:K24/52/12]
江戸名所図会
「子生山 観音堂」
『江戸名所図会 巻之2』 斉藤月岑著 
[請求記号:K291/386] 

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【参考文献】
野村隆著「広福寺伝稲毛重成五輪塔考」 『あゆたか 第18号』稲田郷土史会編・発行 1981年 [請求記号:K20.21/2/18]
鶴見邦男著「子生山東福寺と稲毛三郎」 『あゆたか 第37号』稲田郷土史会編・発行 1999年 [請求記号:K20.21/2/37]
『神奈川県史 別編1 人物』 神奈川県県民部県史編集室編 神奈川県 1983年 [請求記号:K21/16-4/1a]
『中世武蔵人物列伝』 埼玉県立歴史資料館編 さきたま出版会 2006年 [請求記号:281.34RR/105]      

 (兼松 記)