かながわ資料室ニュースレター第37号(2013年8月発行)

新着資料から

◆『神奈川文学散歩』
二松學舍大学文学部国文学科編 新典社 2013年 [K91/106]

  表題からすると、神奈川ゆかりの小説の舞台を巡る散歩ガイドと思われがちです。確かに、鎌倉で夏目漱石の小説の舞台を巡る旅などもありますが、有名な史跡の歴史を紹介する普通のガイドブックのコースもあるかと思えば、大磯では、村上春樹が柿ピーについて熱く語る話が出て来たり、非常にバラエティーに富んでいます。最もユニークなのは、ゴジラ映画で怪獣たちが壊していく横浜の名所を、どのように壊されるかシーンを再現しながら巡るコースです。
 このように本書では、鎌倉・江の島・大山・横浜などの名所史跡を、二松學舎大学文学部の日本文学、中国文学、日本史学、芸能史、映像論・メディア論など様々な分野の教師と卒業生が、枠に囚われない自由な発想で、時には全く自分の趣味でコースを設定し、散歩をガイドする内容となっています。貴方の知らない神奈川の姿をそこに発見することが必ずできるでしょう。

◆『池子の森のエコフィロソフィ』
小林仁・川瀬博・石川孝之著 合同出版 2013年 [K65.32/1]

  本書は、池子の森について1980年代からの書籍や資料を再構成したものです。 池子の森とは逗子市と横浜市金沢区にまたがる照葉樹の森で、都心から50キロ圏内では唯一290ヘクタールもの広さを持つ自然森です。長く米軍施設として立ち入り禁止だったことが、保存に大きく影響しています。
 前半は池子の歴史を振り返ります。旧日本軍の弾薬庫を経て戦後は米軍に接収された池子は、朝鮮戦争などの後方基地となります。その後、米軍住宅の建設地となり、返還を望む市民は「守る会」を結成して反対、市長リコール選挙へ発展します。しかし住宅建設は行われ、1994(平成6)年に逗子市は国と和解しました。昨年に米軍から土地の一部が返還され、現在、公園整備が計画されています。
 後半は池子の森に住む猛禽類の観察から、ユネスコのMAB計画(人間と生物圏計画)に基づき、生物多様性の重要さについて述べています。  

かながわ資料室の新着資料

かながわ資料室の新着資料の一部をご紹介します。

タイトル 著 者 出版者 出版年 請求記号
減災新聞 第1巻(1~25号)神奈川新聞社統合編集局神奈川新聞社2013K07/57/1
峨山(がさん)禅師物語佃和雄曹洞宗大本山總持寺2013K18/180
吾妻鏡 13 現代語訳五味文彦ほか吉川弘文館2013K24/428/13
NHKさかのぼり日本史 外交篇8(鎌倉)NHK出版2013K24/481
敗者の日本史 7関幸彦ほか吉川弘文館2013K27/75/31
鎌倉遺文研究 第31号鎌倉遺文研究会吉川弘文館2013K26/113
金沢(かねさわ)北条氏編年資料集永井晋ほか八木書店古書出版部2013K28/422
足利基氏とその時代黒田基樹戎光祥出版2013K28/423/1
二つの祖国を生きた台湾少年工石川公弘並木書房2013K28/424
共感する力林文子ワニブックス2013K31.1/239
幸せをつかむ力 はじめ塾80年のキセキ落合篤子日本評論社2013K37.7/258
横浜・川崎の鉄道鉄道図書刊行会鉄道図書刊行会2013K68/509
覚書幕末・明治の美術酒井忠康岩波書店2013K70.1/57
高校野球神奈川を戦う監督(おとこ)たち大利実日刊スポーツ出版社2013K78/275
鎌倉六代将軍宗尊親王菊池威雄新典社2013K91.4/98
二宮金次郎の幸福論中桐万里子致知出版社2013K157/671
かまくら今昔抄60話 第3集清田昌弘冬花社2013K291.4/388/3
鎌倉謎解き散歩奥富敬之ほか中経出版2013K291.4/424

コラム・かながわ・フォーカス

[神奈川の祭り ~昭和の記録写真から~]

≪曲題目(きょくだいもく)≫…横浜市旭区(※) (妙蓮寺)
  県指定無形民俗文化財

 写真撮影日:昭和35年10月22日 [請求記号:K4,K27]※撮影時は保土ヶ谷区

【解説】
 曲題目は毎年10月中旬か下旬に、お会式(日蓮宗で、宗祖の忌日である10月13日に営む法会)の行事として行われます。藤沢市片瀬・竜口寺の伝兵衛が安政年間(1850年代)に伝えたといわれ、南無妙法蓮華経や題目歌に合わせて稚児たちが演じる綾取り芸です。綾とは、数本の竹管(綾竹)を手玉に取る技を指します。綾竹はバチといい、長さ20cm位で色紙が巻かれ、両端に赤い房が付いています。他に直径20cm位の彩色の皮を張った締太鼓も使います。また、舞のことを曲と称します。題目歌を担当する歌衆は地取といい、男女長老が行います。稚児は6歳以上で、昭和29(1954)年には男児の方が多くいましたが、今は女児の方が多く、母親も参加します。衣装は現在、女児と母親は薄色、男児は浅葱色の襦袢と帯を着て、紫色の着物に袴をはき、着物の右肩を脱ぎます。以前は大島絣の着物を着ていました。また、撮影当時は金色の長烏帽子を被っていますが、今は着用していません。本堂に本尊を背に雛段二段を構え、そこに子供と母親が坐ったままバチ2本と綾太鼓で舞います。綾太鼓を翻転させて打ったり、バチを投げ上げて受けたりします。歌は、姉ヶ崎・ハヤリ・いろは歌・数え歌など24通りあります。

地取の写真
写真1
地取は数人から数十人で壇
の前方に座り、揃いの浴衣
を着て、大太鼓と団扇太鼓
を叩いてうたう。
餅柱の写真1
写真2
3年に一度、本お会式の際
に、本尊須弥壇の左右の大
柱を、赤・黄・青の餅で作っ
た漏斗形の餅柱で覆う。
餅柱の写真2
写真3
餅柱は高さ1m程で、下部
に柚子と杉葉を配する。燭
大を象ったといい、中世の
餅風流の名残とされる。
バチを掲げる写真
写真4
片手にバチ、片手に綾太鼓
を持つのを「片べ」(カタ
ベ)、両手にバチを持つのを
「諸べ」(モロベ)という。

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【参考文献】
『神奈川県文化財図鑑 無形文化財・民俗資料篇』 神奈川県教育庁社会教育部文化財保護課編 神奈川県教育委員会 1973年 [請求記号:K06/29/3]
『神奈川県史 各論編5 民俗』 神奈川県企画調査部県史編集室編 神奈川県弘済会 1977年 [請求記号:K21/16-2/5a]
『神奈川県民俗芸能誌 増補改訂版』 永田衡吉著 錦正社 1987年 [請求記号:K38/15A]
『かながわの民俗芸能案内』 神奈川県教育庁文化財保護課編 神奈川県教育委員会 1971年 [請求記号:K38/24]

(兼松 記)

コラム・かながわ あの人・この人

文覚【もんがく】 保延5(1139)年―建仁3(1203)年没

   平安末期から鎌倉時代前期の密教僧。
 『平家物語』によると出身は、摂津国渡辺(現大阪市中央区)の渡辺党(源氏とゆかりのある武士団)に属する遠藤氏で、名を盛遠(もりとお)と称しました。出家の原因は、人妻の袈裟御前に惚れ、誤って殺したのを悔いて、と伝えられます。出家名の由来は『説教 因縁 文覚上人行略抄』によると、「文盲」の自覚のもとにその逆の用字により「文覚」と名乗った、とあります。那智の滝に打たれ、全国の山々で修業し、弘法大師信仰に目覚めた文覚は十数年後、京の高雄山神護寺を訪れます。荒れ果てた寺を見た文覚は復興を決意し、承安3(1173)年に後白河院の御所で神護寺への寄進を強要しましたが、捕らえられ伊豆に流されます。そこで源頼朝に出会い、平家追討の蜂起を勧めます。頼朝が挙兵すると、後白河院は文覚支援に転じ、紀伊・丹波など各地の荘園が寄進されます。こうして文覚は神護寺や東寺の再興、高野山の大塔建設などを次々に行っていきます。
 『吾妻鏡』によると寿永元(1182)年に文覚が江の島に弁才天を勧請して、頼朝の命を狙う奥州の藤原秀衡の征討を祈願したとされます。また、『新編相模風土記』には鎌倉の補陀落寺は、養和元(1181)年に文覚が開山したとあり、自作とされる、滝に打たれる文覚像も残っています。さらに鎌倉には、文覚屋敷の跡といわれる所が二つあります。滑川のほとりの勝長寿院跡近くと、銭洗弁天に近い国清寺跡です。この他、浄光明寺には文覚が鎌倉まで背負って来たといわれる八坂不動の像が残されています。
   晩年は、平維盛の息子である六代御前の命を救って身柄を引き取ったことが災いし、正治元(1199)年に頼朝が没すると捕らえられ、佐渡や対馬に流され、最後は、鎮西(九州の異称)で客死したとされます。遺骨は神護寺背後の山頂に埋葬されました。

文覚上人行畧抄
『文覺上人行畧抄』
文覚著
梅村彌市郎等 1752年
[請求記号:K18.4/43]
新刊 吾妻鏡
『新刊 吾妻鏡 〔2〕巻2,3』
菅聊卜著
野田庄右衛門 1661年
[請求記号:K24/22/2]
(右頁終わりに、文覚上人が江の島に大弁才天を勧請、とある。)

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【参考文献】
『文覚上人一代記』 相原精次著 青蛙房 1985年 [請求記号:K18.4/272]
『神奈川県史 別編1 人物』 神奈川県県民部県史編集室編 神奈川県 1983年 [請求記号:K21/16-4/1a]
『日本古代中世人名辞典』 平野邦雄・瀬野精一郎編 吉川弘文館 2006年 [請求記号:281.03/309]

 (兼松 記)

◆草山貞胤の生年について

前号の第36号の「かながわ あの人・この人」で取り上げた草山貞胤について、生年を「文化6(1823)年」と記載しましたが「文政6(1823)年」の誤りでした。訂正いたします。