かながわ資料室ニュースレター第36号(2013年6月発行)

新着資料から

◆『秦野のむかし話 伝統をたずねて 西地区・南地区・上地区編』
岩田達治(1929-)著・さし絵 タウンニュース社 2012年 [K38.63/23]

  著者は小学生の頃より土地の古老から昔話を集め、その数は300話近くに及びます。本書は今まで出版されたそうした昔話を、地域ごとに再編集したものです。全般的にユーモラスな雰囲気に包まれており、特に前半では語り手が、秦野を散歩しながら連れに喋りかけているかのように、途切れることなく次のエピソードへと繋がっていきます。
 最も多いのはキツネの話です。と言ってもただ化かされるだけでなく、助けてお礼をされる内容が多く、人情味溢れる筋となっています。次いで蛇の話も多く、こちらは対照的に恐いストーリーとなっており自然への畏怖が感じられます。また源頼朝の伝説も多く、三廻部には頼朝の墓と呼ばれるものまで存在します。さらに師走八日の「一つ目小僧」や、秦野タバコなど地域の民俗や産業に因んだ話もあってバラエティーに富む内容となっています。

◆『戦時下の日本人と隣組回報』
渡邊洋吉著 幻冬舎ルネッサンス 2013年 [K31/717]

  本書は横浜市立図書館で発見された、昭和16(1941)年1月から1年分の横浜市戸塚区の隣組回報を下地に、永井荷風の日記『断腸亭日乗』などを交えて戦時下の庶民の暮らしの実態に迫るものです。現存する隣組回報は大変希少で、県内では当回報しか確認されていません。特に昭和16年は太平洋戦争が始まる年であり、重要な資料といえます。著者は元銀行員で日本ファイナンシャルプランナー協会に勤めており、本書でも貯蓄目標など金融面からの分析を試みています。
 昭和16年の日本は配給や灯火統制、情報規制など、次第に戦争が日常生活に影を落とす一方で、大規模な空襲など起こらないとされていました。隣組回報でも、都市から退去してはならない、とありバケツリレーなどの防火訓練で対処できるとしています。後の強制疎開など全く予期していない様子が回報から窺え、国の戦争に対する見通しの甘さが改めて浮き彫りにされています。  

かながわ資料室の新着資料

かながわ資料室の新着資料の一部をご紹介します。

タイトル 著者 出版者 出版年 請求記号
鎌倉の寺社122を歩く槇野修PHP研究所2013K18.4/339
小栗日記群馬県文化事業振興会群馬県文化事業振興会2012K21.31/39
動乱の東国史 2高橋一樹吉川弘文館2013K24/475/2
戦国期山内上杉氏の研究黒田基樹岩田書院2013K24/477
豊臣家最後の姫三池純正洋泉社2013K24.4/273
カメラが撮らえた神奈川県の昭和新人物往来社新人物往来社2013K26/113
伊勢宗瑞黒田基樹戎光祥出版2013K28/420
鎌倉広町緑地・花図鎌倉広町緑地自然観察の会植物班鎌倉広町の森市民協議会2012K47.4/33
江の島大好き江の島の植物季節の花坪倉兌雄湘南社2013K47.52/18
京急電鉄 街と駅の1世紀西潟正人彩流社2012K68/506
こんにゃく座のオペラNHKこんにゃく座40周年記念誌編集委員会オペラシアターこんにゃく座2012K76.21/314
あしがらの里・川辺の輝足柄/地域づくり研究会足柄/地域づくり研究会2013K291.81/37/5

コラム・かながわ・フォーカス

[神奈川の祭り ~昭和の記録写真から~]

≪湯河原の鹿島踊≫…足柄下郡湯河原町(素鵞(すが)神社)
  県指定無形民俗文化財

 写真撮影日:昭和40年8月2日 [請求記号:K59]

【解説】
  鹿島踊は昭和40年代には小田原市から伊豆半島東岸に21ヶ所、県内では10ヶ所で踊られましたが、平成18(2006)年には県内で4ヶ所に減っています。夏に多く、素鵞神社では現在8月1日に行われますが、昭和39年以前は7月に宵宮と本祭で行われました。古くは祭礼の7日前に海岸の仮殿に神輿を奉安する際、未明に「お目覚め」と称して踊りました。青年男子に限られ、成年戒行の意味があるとされます。
  踊り手は25人で白丁(白木綿の狩衣)に烏帽子を被り、左手に幣束、右手に扇を持ちます。中心に太鼓役がいて小型の太鼓を高く上げ、反身になって翻転させて打ちます。次に鉦役が2人いて、腰を落としスリ鉦を振り上げ打ちます。これらは神降しの行為とされます。その外側に3人の役がおり、日形・月形役は、金銀の紙で表わされた日と月を棒の先に付け、振り踊ります。昔はシャモジと摺りこぎ棒だったといい、陰陽の象徴とされています。黄金柄杓役は金紙で飾られた、穴が数個開いた円筒を棒の先に付けて振り踊ります。円筒の中にヨネ(古語で米のこと)と呼ばれる五色の切り紙が入っていて振ると穴から零れ出ます。踊り手の他に裃を着て青竹を持つ警護役4人と、歌上げが数人います。歌詞は、慶応元(1865)年の見聞記録『熱海日記』に書かれた来宮神社の鹿島踊歌とほぼ同じ内容になっています。

踊り役の中心の写真
写真1
夏の疫病をもたらす疫神を
踊りに巻き込み、集落伝い
に送り継いで最後に海に放
つ「掛け踊り」とされる。
踊り全体の写真
写真2
太鼓・鉦を中心に二重円を
描き左回りに行う円舞と、
五行五列で整然と行う方舞
を、続けて2度繰り返す。
踊り役の近接写真
写真3
白丁姿に御幣を持ち、鹿島
の神託の厄病除けの札を配
る江戸時代の祈祷師「鹿島
の事触」が元ともされる。
境内での踊りの写真
写真4
歌詞に「弥勒お舟が着いた
やら」とあり、中世に発祥
した七福神宝船思想に通じ
るともいわれる。

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【参考文献】
『神奈川県文化財図鑑 無形文化財・民俗資料篇』 神奈川県教育庁社会教育部文化財保護課編 神奈川県教育委員会 1973年 [請求記号:K06/29/3]
『神奈川県民俗芸能誌 増補改訂版』 永田衡吉著 錦正社 1987年 [請求記号:K38/15A]
『神奈川県の民俗芸能 神奈川県民俗芸能緊急調査報告書』 神奈川県教育委員会 2006年 [請求記号:K38/220]
『熱海日記』 藤原葛満著 文玉圃 1883年 [請求記号:K99.89/2]

(兼松 記)

コラム・かながわ あの人・この人

草山 貞胤【くさやま さだたね】 文政6(1823)年―明治38(1905)年没

  江戸後期~明治期の大住郡平沢村(現秦野市)の神官・農政家。
  草山家は七百年以上の伝統を持つ神官の家柄で、貞胤は、現在「南はだの村七福神」で恵比須神を祀る御嶽神社の神職・和泉の子として生まれました。国学を小田原藩士吉岡信之から、漢学を幕臣岡田正治から学び、報徳の教えを二宮尊徳の高弟福住正兄から受けて36歳で父の職を継ぎます。
 秦野では宝永4(1707)年の富士山噴火により降り積もった火山灰土が、タバコ栽培に適していたため、農家は各々の方法で収穫を上げていましたが、品質が均一ではありませんでした。そこで貞胤は嘉永5(1852)年頃からタバコの改良を始め、木枯らし法、正常密植法、上げ床法を考案します。木枯らし法とはタバコ葉の大規模な乾燥場を設けることで、品質を良くするものです。密植法は、約1,000㎡当たり3,000本だったタバコの株を区画整理して5,000本に増したものです。上げ床法は落ち葉の発酵を利用して、タバコの苗床に落ち葉を入れ生育を速めたものです。さらに明治21(1888)年には水車の動力を使って葉を切るタバコきざみ機(水車切)を開発し大量生産を可能にします。そのかいあって明治15(1882)年、東京共進会で10点入賞、明治23(1890)年及び明治28(1895)年の勧業博覧会では1等、明治34(1901)年の一府十一県連合共進会でも1位を獲得しました。その功績が讃えられ、明治27(1894)年には県知事に賞され木杯を受けます。さらに明治38(1905)年には緑綬褒章を授与されます。葉タバコの品質鑑定では名人とされましたが、本人は一切タバコを口にしなかったといいます。また、楠の植樹や養蚕の普及にも尽くし、亡くなる年には小田原小学校植林会を設立しています。
  一方、本業の神職では秦野の須賀神社など18社の宮司を務め、「南はだの村七福神」で大黒天を祀る出雲大社相模分祠を創立しています。さらに明治26(1893)年に小田原城内に創建された報徳二宮神社の社掌にもなっています。墓所は「南はだの村七福神」で布袋を祀る浄圓寺にあります。

草山貞胤翁肖像
「草山貞胤翁肖像」
『草山貞胤翁』
草山惇造 1915年
[請求記号:K28.63/1]
より。(著者は貞胤の孫)
二宮翁の歌
『公徳經濟二宮翁の歌』
野村成仁作曲
草山貞胤作歌
東生萬巻堂 1902年
[請求記号:K157/115]

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【参考文献】
『神奈川県史 別編1 人物』 神奈川県県民部県史編集室 神奈川県 1983年 [請求記号:K21/16-4/1a]
『郷土歴史人物事典神奈川』 神奈川県史研究会編 第一法規出版 1980年 [請求記号:K28/112]
『かながわの100人』 稲葉博編 神奈川合同出版 1981年 [請求記号:K28/116]
『神奈川の百人』 読売新聞社横浜支局編 丸井図書出版 1981年 [請求記号:K28/121]

 (兼松 記)

◆宝水が建てた芭蕉の句碑に関する記述について

2011年6月発行の『かながわ資料室ニュースレター 第24号』において取り上げた江戸時代の俳人・宝水の記述について、利用者から下記の通りご指摘がありました。
※「宝水は文政3年に松尾芭蕉の『世を旅に代かく小田のいきどまり』という句碑を宗隆寺に建立しています。」とあるが、建立は文政13年で、語尾は“いきもどり”ではないか。
→ 調べた結果、当句碑については以下のように資料によって記載内容が異なっていました。
(1)『神奈川県下芭蕉句碑』 飯田九一編 神奈川文庫 1952年 [請求記号:K93/2]のP.27に、
 「世を旅に代かく小田のゆ起もと里」と記され、P.28に「碑陰には文政十二年四月十二日の建立と銘記されて居りますが、実際は文政十三年十月十六日に建碑式を挙行した事が建立者宝水自身の記載に拠る資料によつて判明致し、」とあります。
(2)『神奈川県史 各論編3 文化』 神奈川県県民部県史編集室編 神奈川県 1980年[請求記号:K21/16-2/3a]のP.266に、
 「宝水は溝の口七面山に芭蕉の、『世を旅に代かく小田のゆきもどり』の句碑を文政十三年(一八三〇)に建立している。」とあります。
(3)『川崎市史 通史編2』 川崎市 1994年 [請求記号:K21.21/5/1-2]のP.461に、
 「文政三年には松尾芭蕉の『夜を旅に代かく小田のいきどまり』という句碑を宗隆寺に建立している。」とあります。