かながわ資料室ニュースレター第30号(2012年6月発行)

新着資料から

◆『私たちの世界遺産 別冊2 平泉から鎌倉へ 鎌倉は世界遺産になれるか?!』
五十嵐敬喜・佐藤弘弥編著 公人の友社発行 2012年 [K70.4/62]

 本書は昨年11月に法政大学で行なわれたシンポジウムをまとめたものです。鎌倉の世界遺産登録への課題に対し、平泉の成功体験から学ぶ、という内容です。
 まず、鎌倉の構成資産に中尊寺金色堂の様な核となる存在が乏しいという点や、「都市とは城壁で囲まれたところ」という西洋の概念から、鎌倉が都市とは理解されにくいことなどが課題として挙げられています。
 この問題に対し本書では、現存する資産だけでなく、平泉の浄土思想の様な目に見えない資産を重視すべきである、と説きます。鎌倉は頻繁に地震・飢饉等の災害に見舞われた都市で、鎌倉大仏も大仏殿を津波で失っています。これに対し、極楽寺は災害の被災者や貧困者、ハンセン氏病患者を救済した施設であり、緊急時には鎌倉大仏前で炊き出しも行っていました。東日本大震災が起きた今こそ、衆生救済を体現した資産を持つ鎌倉が、登録される意義があると述べています。

◆『歴史文化ライブラリー337 陸軍登戸研究所と謀略戦 科学者たちの戦争』
渡辺賢二著 吉川弘文館発行 2012年 [K39.21/25]

 陸軍登戸研究所は現在、「明治大学平和教育登戸研究所資料館」となった36号棟の他は、消火栓、弾薬庫跡などが残るのみです。敗戦後、徹底的な証拠隠滅が行われ、関係者は口を閉ざし、資料も証言もありませんでしたが、川崎や長野の高校生の活動により、重い口が開かれていきました。そして『雑書綴』という当時のタイプ練習用書類が発見され、実態が徐々に解明されたのです。
 研究所は、電波兵器の開発を行なうため高台の当地が選ばれました。戦争の拡大と共に風船爆弾や、それに搭載する細菌兵器、陸軍中野学校が使う諜報機材(透明インク、缶詰型爆弾、小型カメラなど)が作られました。また、経済混乱や石油購入の目的で、中国の法幣や米ドルの偽札も印刷されました。
 本書は研究所関係者を糾弾することを目的とせず、行われた内容を明らかにすることで、科学の平和への貢献について何をなすべきかを考えていきます。

かながわ資料室の新着資料

かながわ資料室の新着資料の一部をご紹介します。

タイトル 著 者 出版者 出版年 請求記号
吾妻鏡 11五味文彦吉川弘文館2012K24/428/11
湯山学中世史論集 4湯山学岩田書院2011K24/447/4
松山城合戦梅沢太久夫まつやま書房2012K24.98/42
武蔵成田氏 論集戦国大名と国衆7黒田基樹岩田書院2012K28/410
戦国北条氏五代黒田基樹戎光祥出版2012K28/404
朔北の雲山田吉郎夢工房2011K28.63/19
知事誕生 2011神奈川新聞報道部神奈川新聞社2012K31/710
子育ては、頼っていいんです!「共育て共育ち白書」編集委員会 神奈川新聞社2011K36.1/431
回想の横空夜戦隊黒鳥四朗光人社 2012K39.31/102
歩いてみよう!花と緑と歴史の鎌倉植物ウォッチング金子昇文芸社2012K47.4/32
大学生がえがく脱原発の未来マニュアルフェリス女学院大学エコキャンパス研究会東京新聞2012K50/117
小田急電鉄のひみつPHP研究所PHP研究所2012K68/501
かまくら歌枕鎌倉歌壇冬花社2011K92.4/121
源氏物語と鎌倉織田百合子銀の鈴社2011K98.4/94
よみがえる金次郎漆原智良同友館2011K157/663/3
鎌倉ブルーガイド編集部実業之日本社2011K291.4/325/2012
鎌倉仏像さんぽベストフィールズメイツ出版2012K291.4/417
金沢区いざという時便利帳地元探検隊岩下書店2012K291.17/44

コラム・かながわ・フォーカス

[神奈川の祭り ~昭和の記録写真から~]

≪お札まき≫…横浜市戸塚区(八坂神社)
  横浜市指定無形民俗文化財

 写真撮影日:昭和38年7月14日 [請求記号:K22、K40]

【解説】
 お札まきは、夕方から境内で始まり、旧戸塚4丁目を巡り14~30ヶ所ほどでお札をまいて神社に戻ります。躍り手は派手な長襦袢を着て、化粧をした10~13名の男衆で、着物にタスキをかけ、手拭いをあねさん被りをし、音頭取りのみボテカツラを被ります。他に翁面をかけた大幣を持つ者が一人います。音頭取りが一節を歌い、躍り手が復唱します。歌詞は、「さあ来い子供、天王様は囃すがお好き~ありがたいお札、授かった者は、病も除ける、コロリも逃げる~ここらで撒こか、まだまだ早い」といった調子で続きます。歌が終わると「正一位八坂神社」と書かれたお札をまき、拾った人は家の戸口や神棚に貼ります。
 京都の祇園祭に代表される御霊祭(疫神や死者の怨霊を鎮め、なだめるために行う祭)に伴う厄病除けの行事とされます。元禄年間の神社再興時に始まったという伝承があり、翁面は江戸中期のものとされ、所蔵する獅子頭にも元禄8年(1695)の漆書があります。嘉永3年(1830)の西沢一鳳作『皇都午睡』に江戸の見聞録として、同様の歌詞や「女のぼて髷を着」という記述があります。また、歌舞伎十八番の『暫』にも「天王さまは囃すがお好き」という台詞があり、当時の流行語だったと思われます。

女姿の男衆の写真
写真1
お札まきは、女装した男衆
10人位で行う。音頭取り
は、島田髷のボテカツラを
被る。御幣持ちのみ男姿。
輪になって踊る写真
写真2
右手に団扇を持ち、「天王
様は囃すがお好き」などと
歌いつつ、右廻りに、簡単
な振りで円を描いて踊る。
撒かれたお札を拾う写真
写真3
「ソラ撒く、撒くぞ」と結んで
音頭取りがお札を撒き、
踊り手が団扇で扇ぎちらす。
人々は拾おうと手を伸ばす。
お札まきが町を歩く写真
写真4
一行は、2~3時間、町内を
めぐり、要所要所で、歌い
踊って、お札を撒きちらす。

※画像をクリックすると拡大します

【参考文献】
『神奈川県文化財図鑑 第3巻』神奈川県教育庁社会教育部文化財保護課 1973年[請求記号:K06/29/3]
『横浜の民俗芸能』横浜市教育委員会社会教育部文化財課編 1986年 [請求記号:K38.1/25]
『神奈川県民俗芸能誌 増補改訂版』永田衡吉著 1987年 [請求記号:K38/15A]
『神奈川県の民俗芸能』神奈川県教育委員会編 2006年 [請求記号:K38/220] 

(兼松 記)

コラム・かながわ あの人・この人

J.C.ヘボン【James Curtis Hepburn】 文化12年(1815)―明治44年(1911)没

 正式名はヘップバーンですが、日本人にはヘボンと聞こえ、自身でも「平文」と署名しています。
 アメリカのペンシルヴァニア州ミルトン市の生まれで、敬虔なキリスト教徒の母親の影響を受けます。プリンス トン大学在学中、化学に熱中して古典の授業短縮を主張し、総長に「古典の知識なしで如何なる学問を究められようか。化学に用いる学名や文献の多くがラテン語ではないか。」と諭されます。この体験が後の辞書編纂へ繋がります。卒業後、ペンシルヴァニア大学で医学博士となり、長老教会に入会、宣教医として東洋布教を志します。天保11年(1840)にクララ・リートと結婚、翌年、中国アモイに渡ります。しかし妻が病気となり帰国し、安政6年(1859)に再び 出帆、10月18日に横浜に上陸します。日米修好通商条約で開港されたのは神奈川ですが、東海道の宿場に外国人を入れたくない幕府は、隔離された出島として横浜港を作ります。これに反発したアメリカ総領事ハリスは、神奈川の本覚寺に領事館を開設、ヘボンもほど近い成仏寺を住居としました。また近所の宗興寺を施療院とし多くの日本人を治療します。文久2年(1862)の生麦事件の際に、負傷したイギリス人を治療したのもヘボンでした。
 多数の功績で最も有名なのはヘボン式ローマ字です。これは慶応3年(1867)に編集出版された『和英語林集成』で考察された綴字法で、耳で聞いた日本語を英語の発音を元に記したものです。また、聖書を翻訳したり、ヘボン塾を開校して夫婦で英語を教え、後の明治学院やフェリス女学院の元を作りました。明治25年(1892)に帰国し、明治44年(1911)にイースト・オレンジの自宅で96歳で亡くなります。

 【参考文献】
 『J.C.ヘボン』昭和女子大学近代文学研究室編 1959年 [請求記号:K28.1/242]
 『ヘボン  同時代人の見た』W.E.グリフィス著 1991年 [請求記号:K28/205]
 『ペリーとヘボンと横浜開港』丸山健夫著 2009年 [請求記号:K25.1/66]

 (兼松 記)