かながわ資料室ニュースレター第23号(2011年4月発行)

新着資料から

◆『あのみちこのみち歴史みち』・『ちがさき村ごと歴史散歩』文化資料館ブックレット1・2
茅ヶ崎市文化資料館編 茅ヶ崎市教育委員会発行 2010年 [K291.53/30/1・2]

 本書は、『広報ちがさき』で連載されたものを再編集したものです。
 茅ヶ崎市は同市を舞台とした歌でも有名なサザンオールスターズの桑田佳祐氏などをはじめ、多くの著名人を輩出してきました。また、箱根駅伝で上空から中継される浜須賀の交差点から湘南大橋までの青い海や砂防林の松なども美しい景色です。その他、映画監督の小津安二郎氏が仕事部屋として利用した茅ケ崎館、大岡越前が眠るお墓、そして毎年「海の日」には茅ヶ崎西浜海岸に40基ほどの神輿が集まり、約10万人の人出で賑わう浜降祭が行われるなど、茅ヶ崎は名所・旧跡・祭事にあふれる町です。
 『ブックレット1』では、美しい海岸通りの国道134号線、茅ヶ崎を東西に真っ直ぐ貫く鉄砲道、東海道に一致する国道1号線、その間を南北に通る幾つもの「みち」をテーマに、その歴史を分かり易く紹介しています。『ブックレット2』では、茅ヶ崎の村ごとに伝わる名所や歴史などを紹介しています。
 これからの過ごし易い季節、茅ヶ崎散策の参考にされてはいかがでしょうか。

◆『天狗推参!』-神奈川県立歴史博物館特別展図録-
神奈川県立歴史博物館編 神奈川県立歴史博物館発行 2010年 [K06/57/2010-9]

 本書は、平成22年9月25日~10月31日まで神奈川県立歴史博物館において開催された特別展の図録です。
 天狗は赤い顔に長い鼻、山伏のような姿で昔話や絵本などに登場する想像上の存在です。全国に多くの伝承があり、神奈川県では大山や大雄山などに伝わる天狗が有名です。また、神楽や獅子舞といった民俗芸能でも多く登場します。
 天狗は中国から伝わったと考えられており、中国の史書では「天狗」という語は災厄をもたらす流星(仏敵)とされ、日本では鬼神の存在として人々から恐れられていたようです。
 天狗に焦点をあてた資料は少ないですが、本書では、謎に包まれた天狗に迫ります。約二百点におよぶ資料を、時代的変遷を軸に五章に分け、全てカラー写真で紹介しています。掲載されている図版や仏像、舞楽面は、天狗の迫力をリアルに伝えます。巻末には作品解説があり、研究資料としても活用できます。

かながわ資料室の新着資料

かながわ資料室の新着資料の一部をご紹介します。

タイトル 著者 出版者 出版年 請求記号
鎌倉路地小路かくれ道大貫昭彦有楽出版社2010K291.4/406
神奈川県建設名鑑 2011年版日本工業経済新聞社日本工業経済新聞社2011K51/214/2011
週刊歴史でめぐる鉄道全路線 no.17曽根悟朝日新聞出版2010K68/491
戸塚はこんな街でした田谷そよ田谷そよ2009K21.19/32
とつかかるた「とつかかるた」製作実行委員会2009K79.19/11
川崎・たちばなの古代史村田文夫有隣堂2010K23.21/28
小栗上野介村上泰賢平凡社2010K28.31/115
川崎市の昭和いき出版2011K26.21/26

コラム・かながわ・フォーカス

大山の歴史(完) ~大山をめぐる人々~ 手中明王太郎家

 手中明王太郎は、『新編相模国風土記稿』によれば、大山寺創建の際の棟梁であり、それ以後代々この名を継いで大山寺の大工として務めてきたとされています。
 その名は中世から散見されますが、江戸期になると全期間を通して明王太郎銘の棟札が確認されます。明治以後も昭和初期まで大工として活動していました。
 『相模國大山阿夫利神社新築圖』を描いた景元は文政2年(1819)生まれです。鎌倉郡平戸村出身で、12歳で明王太郎敏景に弟子入りし、のち養子となり、婿となって明王太郎の名を継ぎます。彼は非凡な技術を持ち、多くの寺社と神輿をつくりました。  また安政元年(1854)から明治36年(1903)の48年間に亘り、100冊をこえる『手控』をのこしています。明治39年(1906)86歳で没。
 現在手中明王太郎文書は神奈川県立公文書館に寄託されています。

【参考文献】

『神輿と明王太郎-宮大工の技術と伝統』手中正著 1996年 [請求記号:K17/47]
『公文書館だより第5号』神奈川県立公文書館編 1998年 [請求記号:ZC]
『神奈川県立公文書館紀要 第2号』神奈川県立公文書館編 1999年 [請求記号:K01/71/2]


コラム・かながわ あの人・この人

都布年【つぶね法師】 生年不詳~嘉永4年(1851)

 俳人つぶね法師の本名や出処は明らかではありません。
 江戸の善光寺に弟子入りし、その後、愛甲郡飯山の金剛寺に移り、飯山観音堂参道の橋の下のたもとにあった龍蔵院白地蔵堂の堂守としてこの地に住み、飯山の人々を集め読書や俳句を教えていたと言われています。俳諧は天保三代家(梅室・蒼[キュウ]・鳳朗)の一人、田川鳳朗の門人でありました。
 つぶね法師は嘉永4年(1851)9月8日没。墓石は金剛寺に建てられ、戒名は「善海祖道首坐」と刻まれています。「首坐」(しゅそ)は禅宗の役僧であり、坐禅修行の大衆の中でも第一位の階級であります。
 つぶね法師一周忌を期して嘉永5年(1852) に飯山村門人により句碑が建てられました。  

【参考文献】

『俳人つぶね法師』飯田九一文庫
『厚木市史』近世資料編3厚木市教育委員会生涯学習部文化財保護課市史編さん係編 2003年 [請求記号:K21.92/4/4-3]
『厚木近世史話』厚木市史編纂委員会編 1972年 [請求記号:K26.92/2]
『多摩のあゆみ』第22号 多摩文化資料室編 1981年 [請求記号:K05.98/4/22]
※掛軸…飯田九一文庫より(※読みの出典は『神奈川県古俳人展望』[請求記号:K93/94]より)


遠藤 故厓【えんどう こがい】 文化11年?(1814)~明治17年(1884)

 明治初期の俳人。
 足柄上郡上大井村(現:大井町)の出身。
 故厓は可布庵逸淵(いつえん)の門人であり、名を市太郎といいました。28歳で江戸に出て俳諧を学び、号を故厓に改めました。33歳を迎えて剃髪して青霞庵(せいかあん)と号し、その後、長く諸国を遍歴して、師である逸淵のもとに帰庵すると師の推挙で可布庵二世を嗣承しました。
 故厓は明治8年(1875)教導職を拝命した後、足柄上下大住愛甲淘綾の諸郡の俳事を鞅掌し、多くの門弟の指導にあたりました。
 明治17年(1884)没。享年70歳。晩年は由阿弥と号しました。
 『椿塚集』を編集し、追善集に『故崕追福集』があります。
 小田原市城山の高長寺には故厓が古稀を迎えた際の寿碑が建てられています。

【参考文献】

『小田原市史』 通史編 近世2 小田原市編 1999年 [請求記号:K21.7/21/2-2]
『神奈川県古俳人展望』金沢文庫編 1953年 [請求記号:K93/94]
『神奈川古俳家筆蹟録』飯田九一文庫
※掛軸…飯田九一文庫より