かながわ資料室ニュースレター第9号(2008年12月発行)

新着資料から

『亜墨理駕船渡来日記 横浜貿易新聞から』
 西川武臣著 神奈川新聞社 2008年 [K25.1/64]
 「亜墨理駕船渡来日記」(「亜米利駕渡来船日記」「異国船渡来日記」)とは、ペリー艦隊来航時に見聞したことを当時の人々がまとめた記録の総称。そのひとつで、植木家(本牧村)に残されていたものが、明治31年8月5日から9月11日まで全23回にわたって「横浜貿易新聞」に翻刻・連載された。これを、改めて現代語に直し、解説を加えて「神奈川新聞」に連載したものをまとめたのが本書。明治31年に連載された際の原本(本牧村北方の植木家文書)は残念ながら残されていないため、新聞記事を底本としている。
 幕府の記録などとは違う、無名の市井の人々によって編纂された記録は、ペリー来航と開国を新たな視線で見せてくれるかも知れない。

『吾妻鏡必携』
  関幸彦・野口実編 吉川弘文館発行 2008年 [K24/439]  
 鎌倉時代の基本史料である『吾妻鏡』。これを読み解く上で欠かせない訓読法、歴史用語、主要人物、系図、関係地図、合戦一覧、略年表などの基礎知識をまとめたもの。また「『吾妻鏡』とは何か」と題する関幸彦・石塚賢治氏による序文では、吾妻鏡の史料的価値および成立、構成、研究の過程などについて言及され、『吾妻鏡』の理解に役立つ1冊となっている。

かながわ資料室の新着資料

かながわ資料室の新着資料の一部をご紹介します。

タイトル 著者 出版者 出版年 請求記号
室町期東国社会と寺社造営小森正明思文閣出版2008 K18/174
念仏行者と地域社会西海賢二大河書房2008 K18/175
時衆文化 第18号時衆文化研究会岩田書院2008 K18.52/92 18
西多摩村誌西多摩村役場西多摩村役場1928 K21.98/122
南武蔵の考古学福田健司六一書房2008 K22.98/103
吾妻鏡 4五味文彦吉川弘文館2008 K24/428/4
鎌倉幕府軍制と御家人制高橋典幸吉川弘文館2008 K24/438
吾妻鏡必携関幸彦吉川弘文館2008 K24/439
亞墨理駕船渡来日記 かなしん150選書西川武臣神奈川新聞社2008 K25.1/64
横濱元町古今史点描大澤秀人横浜元町資料館2008 K26.1/157
鶴翁余影鶴友会鶴友会1929 K28/374
浅野総一郎の度胸人生新田純子毎日ワンズ2008 K28.1/555
浦賀与力中島三郎助伝木村紀八郎鳥影社2008 K28.31/112
るるぶ横浜鎌倉ベストセレクト2009最新版 JTBパブリッシング2008K291.1/183/2009
大山北尾根・支尾根 未知の道シリーズ岡澤重男風人社2008 K291.64/62
創造都市・横浜の戦略野田邦弘学芸出版社2008 K31.1/223
私のおだわら物語小澤良明有隣堂2008 K31.7/43
新・挑戦する独創企業浜銀総合研究所プレジデント社2008K33/161/2
日本における多文化共生とは何か朴鐘碩新曜社2008 K36/1023
あなたは「ひとり」で最期まで生きられますか?栗原道子講談社2008 K36/1025
華僑文化の創出とアイデンティティ張玉玲ユニテ2008 K36.1/409
小田原地方の本土決戦 小田原ライブラリー香川芳文夢工房2008 K36.7/42
藤嶺藤沢物語藤嶺学園藤沢中学校・高等学校 2008K37.52/151
鎌倉お守り散歩 東京地図出版2008 K38.4/30
鎌倉まちのいろは鎌倉いろはの会冬花社2008 K51.4/20
吊掛讃歌 3片野正巳ネコ・パブリッシング2008 K54/27/3
日本鉄道旅行地図帳 4号今尾恵介新潮社2008 K68/453
美空ひばりふたたび新井恵美子北辰堂出版2008 K76.1/113

コラム・開港カウントダウン~150年前のかながわ9~

安政5年12月13日(1859.1.16) 芝生村から川崎宿までの海岸線警備を命じられた伊予松山藩主久松家が砲台建造を願い出る (安政6年6月起工、万延元年6月竣工) 

 ペリー来航以前、江戸湾の防備は観音崎と富津にはさまれた湾口で侵入を防ぐことを基本としていたため、横浜沿岸はあまり重要視されていませんでした。しかしペリーが江戸湾深くまで侵入し横浜開港も決まると、横浜沿岸の警備強化が急務となります。そこで幕府は、安政5年11月、越前藩と伊予松山藩にその警備を命じました。命を受けた松山藩では、早速、神奈川への砲台建設を申し出て、勝麟太郎(海舟)の技術指導の下に着工し、万延元年6月に竣工しました。これが神奈川台場です。当初は開港前に完成する予定でしたが間に合わず、開港後1年余り経ってからの完成となりましたが、この後、明治維新まで神奈川台場での警備が続けられました。

【参考文献】

『横浜市史 第2巻』横浜市発行 1959年 [K21.1/4/2]
『ペリー来航前後の江戸湾の海防(横浜マリタイムミュ-ジアム企画展図録)』
横浜マリンタイムミュージアム編集・発行 2002年[K06.1/25/2002-10]
『神奈川台場関係資料集』神奈川台場関係資料集編集委員会編集・発行 1998年 [K25.12/17]


コラム・かながわ あの人・この人

中島 亨斎(なかじま りょうさい/1819~1896)

 みなとみらい地区方面から県立図書館に来るには紅葉坂を登ってきます。この坂の途中に伊勢山皇大神宮の参道があり、その辺りに中島亨斎という画家が、明治の初めごろ画塾を構え住んでいました。彼は、狩野派の流れをくみ、さらに西洋画を学んだ日本画家・菊池容斎(1788~1878)の弟子でした。そして、師容斎が『前賢故実』(1868)を出版する際には、彼が手伝った(代筆した)ゆえに、計画よりも早く上梓することができたといわれるほどの画力がありました。
 しかし、横浜が開港し明治になると、画を描くだけで生活できる画家は、例えば横浜にゆかりのある、五姓田義松(1855~1915)等の洋画家が中心になりました。西洋画(油彩画)を描けない日本画家は、生活のために、陶器の上絵や七宝焼の下絵といった輸出物の絵を描いて生業としており、亨斎も弟子・鈴木華邨(1860~1919)もご多分にもれずこういった仕事をしていました。
 師の没後、その後継者の座を年下の松本楓湖(1840~1923)に譲った亨斎は、失意の内に酒で身体を壊し、明治29年に亡くなりましたが、弟子の華邨は明治画壇で活躍しました。その門下からは、梶田半古・小林古径・前田青邨・奥村土牛等の著名な日本画家が出て、日本画壇の主流になりました。

【参考文献】

(以下、4点全て飯田九一文庫所蔵)
     『中島亨斎画暦』 時期不明
     『中島亨斎画手本』 1891
     『亨斎画譜』(乾・坤) 博文館 1894
     『真偽評価書画鑑定指針 容斎派』 吉岡班嶺/編著 帝国絵画協会 1928