かながわ資料室ニュースレター第4号(2008年2月発行)

新着資料から

『近世寺社参詣の研究』
原淳一郎 著 思文閣出版 2007年 [K18/172]
本書は、寺社参詣という行動様式そのものを研究対象の根本に据えて、思想史、文化史的立場から、近世において寺社参詣の気運がいかに上昇し、変容していったのか、また、その背景は何かを考察したものである。考察の対象は、相模大山、江ノ島、鎌倉、成田山新勝寺など、関東にある寺社・名所の参詣行動に絞られている。関東は方円状に諸山岳宗教の聖地を配するという地理的特性を持っており、信仰の浸透・受容を把握しやすいと考えられている。
また、序章には、「戦後宗教史の流れと近世寺社参詣史」という一節があり、戦後の宗教史の流れを振り返るとともに、寺社参詣史を取り巻く民俗学・地理学などの成果をまとめている。寺社参詣に関わる研究は、民俗学、歴史学、地理学、国文学、宗教史、文化人類学など多様な分野において別個に集積されているのが現状であるため、これによって、寺社参詣に関する研究の軌跡を体系的に概観することができる。

『若き植村正久』
雨宮栄一 著 新教出版社 2007年 [K19.1/187]
植村正久(1858-1925)は、日本のプロテスタント教会の主要な原型を形成した人物である。徳川家の直参、旗本の家に生まれた彼は、日本開国後、若くして横浜においてキリスト教者となり、プロテスタントの集まりである横浜バンドと呼ばれるグループに加わった。また、山手のブラウン塾で神学を学ぶなど、横浜と深い関わりをもっている。
日本プロテスタント教会史上、功績が大きい植村正久だが、これまで、個別テーマごとの研究はあっても、本格的な伝記・評伝はほとんど書かれてこなかった。
本書は、植村正久の人物像全体を歴史的に、立体的に見た伝記・評伝として著されたものである。旧幕臣としての生い立ちから始まり、キリスト教との出会い、入信、献身に至るまでの経緯、結婚、主著ともいうべき『真理一斑』と『福音道志流部(ふくいんみちしるべ)』の刊行の経緯など、若き植村正久の姿を多面的に描き出している。

かながわ資料室の新着資料

かながわ資料室の新着資料の一部をご紹介します。

タイトル 著者 出版者 出版年 請求記号
道徳イノベーション -二宮金次郎の教え- 三戸岡道夫 栄光出版社 2007 K157/634
吾妻鏡 :現代語訳 1 五味文彦 吉川弘文館 2007 K24/428/1
鎌倉幕府御家人制の政治史的研究 清水亮 校倉書房 2007 K24/429
鎌倉幕府体制成立史の研究 三田武繁 吉川弘文館 2007 K24/430
文士と御家人 -中世国家と幕府の吏僚- 北爪真佐夫 青史出版 2002 K24/431
戦国大名北条氏文書の研究 山口博 岩田書院 2007 K24.7/142
日本近世史年表 吉川弘文館編集部 吉川弘文館 2007 K25/209
片葉雑記 -色川三中黒船風聞日記- 色川三中 慶友社 1986 K25/210
鎌倉遺文研究 第20号 鎌倉遺文研究会 吉川弘文館 2007 K27/75/20
千佳慕の横浜ハイカラ青年記 熊田千佳慕 フレーベル館 2007 K28.1/535/2
ヒコの幕末 山下昌也 水曜社 2007 K28.1/550
按針に会いに 逸見道郎 かまくら春秋社 2007 K28.31/105
史料が語る坂本龍馬の妻お龍 鈴木かほる 新人物往来社 2007 K28.31/106
日本経済と私とSFC  岡部光明 岡部光明 2007 K28.52/49
-慶應義塾大学最終講義-        
新編武蔵国風土記稿 多摩郡15巻 間宮士信 文献出版 1997 K291/485/15
川崎市walker 2008年版   角川クロスメディア 2007 K291.21/146/2008
浮動票の時代 長島一由 講談社 2007 K31.32/37
地価マップ都市計画用途地域図  土地情報センター ゼンリン横浜営業所 2007 K34/43-2/2007
神奈川県 平成19年        
三地価要覧 平成19年版 神奈川県   海陽社 2007 K34/58/2007
神奈川の部落史 「神奈川の部落史」編集委員会 不二出版 2007 K36/991
ヨコハマ発熱!どうするんだ子供の教育 横浜青年会議所 ダイヤモンド社 2007 K37.1/301
外郎・透頂香と江川酒 杉山茂 近代文芸社 2007 K49.7/27
田園都市生活 vol.26   枻出版社 2007 K59/46/26
湘南で暮らす本   枻出版社 2007 K59/55
横浜西口開発物語 岡幸男 いのちのことば社 2007 K60.1/70
かまくら楽食日記特盛 島津克代子 広済堂出版 2007 K67.4/21/2007
東京急行電鉄5000形 宮田道一 ネコ・パブリッシング 2007 K68/440
知られざる魯山人 山田和 文藝春秋 2007 K75.4/31
ヨコハマ浄夜 平岡正明 愛育社 2007 K77.1/106
創立50周年記念誌 剣道 神奈川県剣道連盟 神奈川県剣道連盟 2003 K78/182/ 50
松坂大輔のDNA 林壮行 アスコム 2007 K78.1/154
赤い崖の女 -横浜開港絵巻- 山崎洋子 講談社 2007 K97.1/232

催しもののご案内

ミニ展示「小栗上野介忠順と神奈川」

 

幕臣の立場で国家改造の設計者の役割を果たし、今年が没後140年となる小栗忠順と神奈川のかかわりを当館所蔵の資料によりご紹介いたします。

展示期間 平成20年2月15日(金)~5月7日(水)
展示場所 新館4階 かながわ資料室

コラム・開港カウントダウン ~150年前のかながわ4~

安政5年(1858)4月25日(陰暦3月12日)、萩藩、三浦郡秋谷村神明社にて 天災続きの折柄農漁豊穣・除災祈願の祭礼を行う。

寛政期(1789-1801)に入ると、外国船の出没が多くなり、江戸湾の入口である三浦半島の海防が注目されるようになりました。三浦半島の海防は、幕府の命により、会津藩、川越藩、彦根藩、萩藩など、諸藩が交代で分担しました。
嘉永6年(1853)、三浦半島の海防は熊本藩と萩藩が担当することになりました。特に萩藩は領民支配に気を配り、村々に教諭書を与えて農民の心得を諭しました。また、国元で実施した種痘接種を無料で実施したり、人々の気持ちを引き立てるために社寺へ農漁豊穣・除災祈願の祈願を行ったりしました。このように民政に特に力を入れたのは、本領を遠く離れた地での海防には、領民の協力が不可欠であったからです。海防が行われるようになると、三浦半島は海防担当藩の領地・預地となり、現地の人々は海防のための臨戦態勢に組み込まれ、重い負担を課せられたのです。
安政5年(1858)、日米修好通商条約が締結されると、海防の必要性は減少し、防備体制も縮小されました。

【参考文献】

『神奈川県史 別編3 年表』 神奈川県 1982年 [K21/16-4/3]
『神奈川県史 通史編3 近世(2)』 神奈川県 1983年 [K21/16-3/3]
『逗子市史 通史編 古代・中世・近世・近現代編』 逗子市 1997年 [K21.32/2/3]
『図説 三浦半島 上巻』 郷土出版社 1994年 [K21.3/17/1]

コラム・かながわ あの人・この人

小栗 忠順(おぐり ただまさ/1827~1868)

幕末の旗本・小栗上野介忠順は、安政7年(万延元年1860)日米修好通商条約の批准書交換使節の監察として渡米、帰国後は幕府の中枢にあって勘定奉行・陸軍奉行等を務め、財政家及び近代化政策推進者として敏腕を振るいました。彼が手がけた事業は、フランスとの提携による横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)の建設をはじめ、横浜仏語伝習所の開設、幕府陸軍の近代化、日本最初の株式会社・兵庫商社の創立、洋式建築の導入など多岐にわたり、明治の文明開化を先取りするものだったといえます。
慶応4年(明治元年 1868)1月、鳥羽・伏見の戦いの後、小栗は江戸城で倒幕勢力に対し主戦論を唱えるも容れられず、職を辞して3月初め知行地の上野国権田村(現・群馬県高崎市倉渕町権田)に引退します。しかし、わずか2か月後の閏4月、東征軍の命を受けた高崎藩ほかの藩兵に捕えられ、斬首に処せられました。享年42歳の非命の最期でした。

【参考文献】

『小栗忠順(週刊日本の100人番外編)』 デアゴスティーニ・ジャパン 2008年 [K28.31/107]
『幕末開明の人小栗上野介』 市川光一他著 群馬県高崎財務事務所 1994年 [289.1/3428]