かながわ資料室ニュースレター第3号(2008年1月発行)

新着資料から

◆『吾妻鏡事典』
 佐藤和彦・谷口榮 編 東京堂出版 2007年 [K24/426]

 『吾妻鏡』は、鎌倉幕府創始期から鎌倉時代中期に至るまでの事歴を、鎌倉幕府が編年体で編纂した歴史書である。日本中世史研究の重要な史料の一つとされており、神奈川の歴史を調べる際にも欠くことのできない史料である。
 本書は、『吾妻鏡』を日本中世史の諸問題を検討する根本史料であると位置づけ、文献史学・考古学・国文学などの多分野の研究者によって、『吾妻鏡』を多角的に考察し、中世社会の本質を解明しようとしている。
 本書の構成は、序説、1 政治と合戦、2 人名考証、3 社会史、4 吾妻鏡の書誌研究である。タイトルでは「事典」としているが、事典の体裁をとっているのは2章「人名考証」の部分のみである。3章「社会史」では、「鎌倉の武家儀礼」、「占いとまじない」など、『吾妻鏡』から鎌倉時代、特に鎌倉を舞台とした東国の武士社 会や生活などを社会史的に読み解くことを試みており、本書の特徴ともなっている。また、4章「吾妻鏡の書誌研究」では、『吾妻鏡』の諸本の整理と研究史をまとめており、さらに踏み込んで『吾妻鏡』を研究する際の参考になる。全体的にわかりやすい文章で記述されており、『吾妻鏡』を通して歴史の面白さがわかるような内容となっている。

◆『横浜の関東大震災』
 今井清一 著 有隣堂 2007年 [K45.1/76]

 平成7年(1995)1月17日の未明に阪神・淡路大震災が起こった時、関東大震災時の東京と比較されたが、港湾都市で埋立地と丘陵が多いなど、神戸と共通点が多い横浜は比較の対象にされなかった。これは、「横浜の震災についての研究が乏しく、人々が明確なイメージをもっていなかった」ためと著者は分析する。関東大震災の被害は東京を中心に語られることが多いが、被害は神奈川県、千葉県など広い範囲に及び、当時の震災誌などを調査すると、震度や死亡率は横浜の方が大きい。
 本書では、市内各地域の被害の実態や、大地震にあった市民たちが直面した苦難の状況、救援活動、震災からの復興などについて、史料や遭難記・手記を手がかりにしながら具体的に描き出している。

かながわ資料室の新着資料

かながわ資料室の新着資料の一部をご紹介します。

タイトル 著者 出版者 出版年 請求記号
近世の遊行聖と木食観正西海賢二吉川弘文館2007 K18/171
日本中世史年表吉川弘文館編集部吉川弘文館2007 K24/427
昭和30年代の神奈川写真帖 下巻アーカイブス出版編集部アーカイブス出版2007 K26/102/2
向ケ丘遊園モノレールはしらのはなしののぱりこ新風舎2007 K291.21/148
箱根案内野地福造新弘社1927 K291.85/354
ホントに歩く大山街道中平龍二郎風人社2007 K291/736
町田相模原walker 07-08年版 角川クロスメディア2007K291/737/2007-2008
横濱市町名沿革誌横濱市役所文書課横濱市役所1939 K31.1/217
高齢者グループリビング「Coco湘南台」西條節子生活思想社2000 K36.52/37
在宅ターミナルケアのある暮らし-続・高齢者グループリビング「Coco湘南台」-西條節子生活思想社2007 K36.52/37/2
横浜おやこ劇場西村たか子国土社2007 K37.1/300
多文化共生教育とアイデンティティ金侖貞明石書店2007 K37.21/343
サシバ通信茂木一男かまくら春秋社2007 K48.4/15
関東病院情報 2007年版 医事日報2007 K49/170/2007
工場ガイド 神奈川デ-タフォ-ラムデ-タフォ-ラム2007 K50/109/2007
鎌倉洋館スケッチ帖はりがいみちこかまくら春秋社2004 K52.4/20
横浜産業のルネサンス横浜市立大学国際総合科学部ヨコハマ起業戦略コース学文社2007 K60.1/69
横浜酒類販売業組合創立四十周年記念横浜小売酒販組合横浜小売酒販組合1954 K67.1/318
横浜いま評判のうまい店300軒             2008年版成美堂出版編集部成美堂出版2007K67.1/319/2008
横浜港の七不思議田中祥夫有隣堂2007 K68.1/293
横浜アンパンマンこどもミュージアム
公式ガイドブック
 日本テレビ放送網2007 K70.1/54
もっと知りたい雪村小川知二東京美術2007 K72/148
文明開化期の横浜・東京横浜都市発展記念館有隣堂2007 K74.1/82
日本のナット・キング・コールと呼ばれた男デニー白川神奈川新聞社出版部神奈川新聞社2007 K76.1/109
湘南讃歌加山雄三神奈川新聞社2007 K77.53/14
Forza!-川崎フロンターレ2007- 日刊スポーツ出版社2007K78.21/46/2007
高校野球神奈川グラフ 2007 神奈川新聞社2007 K78/38/2007
「鎌倉遺文」にみる中世のことば辞典ことばの中世史研究会東京堂出版2007 K81/47
福田正夫・ペンの農夫金子秀夫夢工房2007 K91.7/76
濱俳句の系譜松崎鉄之介梅里書房2007 K93.1/371
小栗往還記松本徹文藝春秋2007 K96.52/12
我が旗を、鎌倉に立てよ-新田義貞の生涯-植木静山朝日新聞社2007 K97.4/125
ラストメッセージ-ガラスのうさぎとともに生きて-高木敏子メディアパル2007 K98.61/27
廻国雑記栗原仲道名著出版2006 K99/73

コラム・開港カウントダウン ~150年前のかながわ3~

安政4年(1857)12月21日(陰暦11月6日)、目付・岩瀬忠震、横浜開港の必要性を 老中に上申

 安政5年に調印された日米修好通商条約によって、神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)・新潟・兵庫の開港が規定されましたが、米国総領事・ハリスが当初提出した条約の草案には、開港場および開市場の候補地として横浜または神奈川はありませんでした。これに対し、新しい時代を見据え、横浜開港の必要性を唱えたのが、目付・岩瀬忠震(ただなり)でした。オランダ、ロシアとの追加条約を結んで長崎から江戸に帰る途中、天竜川近くで、ハリスの重大提議についての情報を得ると、忠震はすぐさま筆をとり、安政4年12月21日(11月6日)、老中・堀田正睦に上申書を書きました。上申書の内容は、横浜開港の必要性を明確に、言葉を尽くして説いたもので、その意見は堀田正睦に取り上げられました。忠震は、下田奉行・井上清直とともに交渉の全権を任じられ、ハリスと日米修好通商条約草案を審議しました。
 その結果、安政5年7月29日(6月19日)に条約調印、安政6年7月1日(6月2日)に横浜港は条約に基づいて開かれることとなります。
※( )内の日付は陰暦

【参考文献】
『横浜市史』第2巻 横浜市編・発行 1959年 [K21.1/4/2]
『横浜開港の恩人岩瀬忠震』 森篤男著 横浜歴史研究普及会 1980年 [K05.1/62/1]
『岩瀬忠震』 松岡英夫著 中央公論社 1981年 [K28.1/228]
『幕末五人の外国奉行』 土居良三著 中央公論社 1997年 [K25/170]


コラム・かながわ あの人・この人

福田 正夫【ふくだ まさお】(1893~1952)

 福田正夫は、明治26年(1893)3月26日、小田原町十字(現・小田原市南町)にて小田原藩藩医・堀川好才の五男として生まれ、17歳のとき福田家の養子となりました。大正2年(1913)に神奈川県師範学校を卒業し、翌年東京高等師範学校に入学しますが、中退。川崎の玉川小学校に赴任し、そのかたわら詩作やアメリカの民衆詩人・ホイットマンの弟子であるトローベルの研究などを行いました。
 大正4年12月、第一詩集『農民の言葉』を自費出版し(発行年月は大正5年1月)、これを契機として詩壇に進出していきます。大正7年(1918)、小田原在住の井上康文らと同人詩誌『民衆』を創刊、詩壇に新風を送り、民衆詩派の中心詩人として活躍しました。同誌廃刊(1921年)後は、長編叙事詩「高原の処女」「嘆きの孔雀」などを発表したり、歌謡曲や校歌の作詞にもたずさわり、戦時中は「陸軍省新聞班」の宣伝雑誌に掲載しました。昭和27年(1952)6月26日に死去、墓所は小田原市の久翁寺にあります。

【参考文献】
『福田正夫・ペンの農夫』 金子秀夫著 夢工房 2007年 [K91.7/76]
『小田原と文学』 石井富之助著 小田原文芸愛好会 1990年 [K91.7/34]
『福田正夫 -追想と資料-』 小田原市立図書館編・発行 1972年 [K91.7/7]
『神奈川県史 別編1 人物』 神奈川県編・発行 1983年 [K21/16-4/1]
『神奈川県百科事典』 神奈川県百科事典刊行会編 大和書房 1983年 [K03/1/1]