平成27年度「社会・人文系再発見シリーズ」連続講演会 ◆ 講演録

「持続可能な社会」としての江戸 ~今を生きるヒント 第4回


「災害と復興―復興を支えた共同の力―」

  渡辺 尚志氏 (一橋大学大学院社会学研究科教授)
  平成28年2月20日(土) / 神奈川県立図書館 新館4階セミナールーム

【講演概要】

渡辺尚志氏  本日は、江戸時代の村と百姓について研究してきた立場から、江戸時代の災害と復興をテーマにお話ししたい。被災した村と村人が被害から立ち直る様子を、当時の村の結びつきと、大きな災害である浅間山噴火と関東大洪水を題材として述べたい。

 まず前提として、村の結びつきの中身を説明したい。従来の百姓のイメージには、武士に支配され、ものも言えず年貢の重圧に苦しみ我慢の限界を超えると一揆を起こして弾圧される、というようなものがある。しかし、こうした「弱い百姓」のイメージは、実像からはほど遠いものであった。このような誤ったイメージの原因はさまざまあろうが、村という共同体の存在が忘れられていることが一因ではないだろうか。百姓は一人で武士と向き合えば弱い存在であるが、村の一員として団結することによって、武士にも主張すべきことは主張し、余暇には文化に親しみ、生活水準を上げていく江戸時代の発展を担う存在だった。
 現在、地域コミュニティの崩壊、人間関係の希薄さがいわれているが、江戸時代の村には、今より強い結びつきがあった。しかしそれは、江戸の人情の細やかさというようなことではなく、村が生活組織であるとともに生産組織でもあって、生産・生活全般のために強い結びつきが不可欠であったからである。
 村は、概念的にいうと、百姓たちの住む集落を中核とし、その周囲に田畑(耕地)、その外側に山野がある、三重の同心円構造の共同体であった。村人が生きていくために集落と田畑は重要だが、その外縁に広がる山野も、食料、燃料や建築用材のための木材、肥料を得るための草や木の葉の調達の場として重要だった。
 一般的に野や山は共有地(入会地)であり、それぞれの家はその利用にあたって資源の保護のために、採取できる量や時期、使用する道具などを決めた村の共同利用のルールを守らなければならなかった。村人は農業生産や生活に必要な山野の利用のためにルールを守り、助け合い支え合った。農業に必要な水は雨水だけでは足りなかったため、川から水を引く用水路を作ったが、それも村全体の共有物であった。そのメンテナンスも村全体で行ない、村の道・橋の補修や寺院・神社の祭礼、治安維持、防火・防災も村人自らが担っていた。今は非常時には通報するのが当たり前の警察も消防もなく、武士は遠く離れた城下町に住んでいたため、江戸時代の村では、まず自分たちで対応する必要があった。
 また、田植えや稲刈りなど一時に多量の労働力が必要な時期には共同作業を行ない、年貢納入の際は連帯責任を負うなど、村人たちは日常的に強い結びつきを持っていた。そのことが、災害時に活かされたのである。
渡辺尚志氏  浅間山は有名な活火山で、大噴火は今までに2回あり、そのうちの1回が天明3年(1783年)に起きた。ピーク時には大量の火山灰が噴き上がり、火砕流が北側に流れ出した。この時の火砕流は、時速100kmを超えていたという。火砕流は吾妻川に流れ込み、川の水位が上がり泥流の洪水が起きた。また、噴き上がった火山灰は偏西風で東に流れ、耕地に降り積もった。火山灰が田畑に積もると種はまけなくなり、灰を除去しない限り耕作はできない。また、灰が葉につくと植物は枯れてしまう。そのため広範囲に被害が及んだ。
 この噴火による死者は約1500人にのぼったといわれている。災害後、幕府はまず幕府領の村々の復興のため、食糧(代)、農具代や建物の建築費などを支給し、耕地の火山灰の除去や用水路・河川の堤防の復旧工事を実施した。また幕府領でない大名や旗本領も含めた復興対策も行なったが、幕府領の村々に比べて支援が手薄であった。大名や旗本も各領地の復興にあたったが、小さい藩や旗本の復興策は幕府以上に不十分で、村々を満足させるものではなかった。村人たちは幕府や領主に粘り強く救済の要求をするとともに、自力での復興策も追求した。
 百姓たちは、できるだけ父祖伝来の土地にとどまって復興を行なった。被害の大きい村でも苦労をいとわず、生まれ育った土地に残っての復興が求められた。平和な江戸時代には、何世代も同じ土地を耕してきたことで「故郷」や「先祖代々の財産」という意識が芽生えていた。人的被害が甚大であったり、広範囲に荒れ地が生じたりした時には、村によっては家族の再構成や土地の均等再配分が行なわれる場合もみられた。
 最も被害が大きかった鎌原村では、噴火により人口570人中死者477人、家屋は倒壊し、馬も200頭中170頭死亡、耕地の95%が荒廃した。鎌原村は幕府領であったが、食料代が幕府から支払われたのは被災から1か月経った8月であり、復旧工事は9月から開始された。この工事を「お救い普請」といい、耕地の再開発と道づくりが行なわれた。村の耕地の3分の1の灰を取り除くことを目標に工事が進んだ。実際に工事を請け負ったのは、被災直後に救援の手をさしのべた近くの村の有力百姓で、働いたのは鎌原村の生存者と近隣の困窮する村人だった。この賃金により人々は冬中を安楽に暮らせたという。噴火の半年後には目標の復旧が済み、とりあえずの再開発は終了した。
 鎌原村では、再開発した耕地をそれまでの所有関係を白紙に戻し、生存者各人に平等に再配分した。また、近隣の有力百姓が中心となって生き残った人々に親族の誓いをさせて一族にまとめ、家族が基本の農業が営めるよう家族を再構成した。村の団結の力で復興をめざしたことは、江戸時代の特色といえる。これは農業経営の基本単位である家の再建のための工夫、知恵でもあった。このようなかたちでの家族の再構成は、当時としても特殊ではあったものの、後継ぎの無い家への養子のあっせん、結婚の際の村への相談など、家庭の問題に村が関わることは日常的に行なわれており、鎌原村における家族の再構成も日常からかけ離れたものではなかった。復旧作業は、被災直後は近隣有力百姓から援助を受けて当座をしのぎ、幕府の支援により本格的な復興をめざすという二段階で進められた。非常事態に際しては、幕府より敏速に対応できた地域リーダーの存在が重要だったことが分かる。
 現在、災害の復興に必要な要素として、公助・共助・自助があるといわれている。江戸時代には公助(幕府、大名など)が足りない状態にあったため、相対的に共助(力を発揮する主体としての村の団結があった)がより必要になったのであり、その共助を担っていたのが江戸時代の村であった。

 寛保2年(1742年)8月1日から2日にかけて、関東地方を大型の台風が襲った。関東各地で河川の堤防が決壊、大洪水が起こり、1058人の死者を出したとされている。この時、現在の川越市あたりで救済に尽力したのが奥貫友山である。友山は武蔵国入間郡久下戸村の名主で、近隣の村にも多くの土地を持つ有力な地主だった。洪水のとき奥貫家では床上浸水、久下戸村の他の家では軒下まで水に浸かってしまったが、人的な被害はなかった。家屋、家財、農作物の被害は甚大なもので、多くの村人が飢えに苦しんだ。
 しかし川越藩からの支援は4か月以上遅れた上、物資は十分に行き渡らなかったため、友山ら地域リーダーの役割が重要になった。友山はまず、道普請(インフラの復旧)・造林(苗木を植え育てて財産づくり)・水塚(洪水に備える小高い丘)の工事を行なった。工事は復旧・復興・防災を目指すものであると同時に、友山が自腹で賃金を支払い働いた村人に労働の報酬として食糧が得られるようにする、一石二鳥の効果があった。一方でお年寄りや子どもなど、働けない人には無償で食糧を提供した。このように友山は二本柱の救済策を実行した。
 また、友山は自村・近隣のみならず、無縁の人たちへの援助、すなわち物乞いの救済も行なった。江戸時代は公的な救済が弱かったため、被害の大きい地域の人は被害の少ない村に物乞いに行った。頼ってくる困窮者を援助する有力百姓の存在が、こうした物乞いの生存を支えた。友山の救済活動は、貨幣換算で総計金108両余りにのぼった。わかる範囲で、その救済の割合を出してみると自村の村人が45%、近隣の村が14%、遠方の人が41%となっており、半分以上が自分の村以外の人への支援であることは注目される。
 しかし、こうした広範な救済活動は、家計に大きな負担となった。物乞いは最多で1日に712人も来るようになり、経済的な理由と、このまま続ければ施す側におごりが生まれることを理由に、洪水の翌年4月末に物乞いへの支給を打ち切った。以上が友山による支援の概要だが、このように公助の不足部分を有力百姓ら地域リーダーが私財を投じて救済活動を行ない補うことで、被害を軽くした側面があった。
 我々からすると賞賛に値する活動だが、後年、友山は支援を手広くやりすぎたと後悔している。友山は、彼ほどの支援ができなかった他の有力百姓の反発、自村の百姓からは見ず知らずの物乞いに施すより自分たちへの支援をもっと手厚くしてほしいという不満、また、物乞いの人たちのやり場のない恨みが自身に向けられる可能性にも言及している。歴史の現実は、このように物語的な美談では終わらない部分もあり、すべてがうまくいくわけではない。厳しい現実も見つめつつ、個人の善行だけではない、制度化された救済システムの確立が求められた。現在、江戸時代に比べて公助は格段に手厚くなった。しかし、国や県に頼るばかりではなく、自助とともに地域で助け合う必要もあるだろう。江戸時代の共助の核は、人々をまとめるリーダーとなる有力百姓のいる村の力であった。村は決してユートピアではなかったが、百姓たちの生活に不可欠な組織として機能し、その結びつきが災害からの復興に活かされていたことに学ぶ必要がある。

【質疑応答】
◆鎌原村で家族をまとめたとき、夫婦の姓は統一されたのか。また、レジュメに、友山のような個人の善行のみではなく、救済システムが求められたと書かれているが、その後そのようなシステムは育ったのか。
→夫婦の姓について、資料には出てこない。戸主の姓に統一された可能性もあるが、当時女性は結婚後も生家の姓を称する夫婦別姓の例も多かったため、そちらの可能性もあるので、断定はできない。
救済システムについては、個人では限界があったことから、その後公助の仕組みを整える要求は強くなった。その一つとして食糧の備蓄がある。これは、領主・村々がそれぞれ負担して穀物を備蓄するもので、お上任せでも村の独力でもない、新しい防災対策であった。

◆鎌原村の耕地の均等割りでは、子どもや老人にも平等に分けたのか。また、与えられた耕地が広すぎる気がするが、最終的に人口を元に戻すような計画だったのか。
→耕地の均等再配分は、生存者全員に平等に分けられた。形式的には平等だが、労働力の面からみると不平等でもある。そこで、それを均すためにも家族の再編があったと考えられる。
再開発された耕地は、生存者だけで耕作するにはやや広すぎる。そこで、近隣の村から入植者を募って、彼らに耕作と、さらなる再開発をしてもらう計画があった。しかし、近隣の地域も被災しており、自分の村の復興だけで手一杯となっていたため、この計画は実現しなかった。

◆奥貫家の家計に負担がかかったという話だったが、その後奥貫家や村はどうなったのか。
→奥貫家は財産の相当部分を失ったが、村には住み続け、それなりの地位を保った。村人の中に批判はあったものの、支援に対する感謝も多く、その後の百姓一揆で、奥貫家は打ちこわしを免れている。友山の支援を恩に思う村人がいたことで、奥貫家は存続し、村も近代まで続いた。