平成27年度「社会・人文系再発見シリーズ」連続講演会 ◆ 講演録

「持続可能な社会」としての江戸 ~今を生きるヒント 第3回


「人に優しく、自然と共生した江戸時代の知恵と技」

  鈴木 一義氏(国立科学博物館産業技術史資料情報センター長)
  平成28年2月14日(日) / 神奈川県立図書館 新館4階セミナールーム

【講演概要】

鈴木一義氏  以前、エンジニアとして働いていたころ、アジアの中で日本だけがいつの間にか欧米先進国に肩を並べ、欧米発の科学技術分野で日本人がノーベル賞を多数受賞していることについて、不思議だと言われることが多かった。我々自身も日本が発展した理由をはっきり説明できないでいるが、日本が世界の中でそれなりの地位を占めるようになった今、自分たちが何者なのかを知り、発信していかなければならない。私自身も日本の戦略や科学技術をきちんと検証する必要性を感じて科学博物館に入り、ものづくりや歴史を現代にフィードバックすることを念頭に置いた活動をしてきた。
 本日は、なぜ日本が近代化に成功したのか、日本とはどのような国なのか、ということをお話ししたい。そして、今回のテーマである「人に優しく、自然と共生した江戸時代の知恵と技」を今後、意識的に活かし、実践するきっかけとなれば、と考えている。
 研究室から見た筑波山の朝焼けの風景から『枕草子』の冒頭を思い出したことがある。それは、私たちが当時の人たちと千年の隔たりを経て同じ自然に対する共通認識を持てる、同じ感覚を共有できるということを示している。日本は山と海に囲まれ温暖・多雨で自然環境は昔とほとんど変わっていない。それに対して日本以外のほとんどの先進国は、木を伐採し変化した環境に合わせて薪から石炭、石油へとエネルギー源を転換してきたように、科学技術を発達させることで自然と付き合ってきた。また、水耕栽培をしていた江戸時代の日本はヨーロッパの30倍の食糧生産力を持ち、100万都市江戸が維持されていた。

鈴木一義氏 ○江戸時代に育まれた技と心
 日本人は職人、「匠」に対して尊敬の念を持つが、多くの国では、社会の下層で支配者に迎合して武器を作る人々という程度の認識でしかない。日本人の感性のもと江戸時代に育まれた技術のあり方を見ていきたい。
 マルコ・ポーロは中国で遣唐使などが持ち帰った砂金や金閣寺、中尊寺金色堂などの話を聞いて「黄金の国ジパング」として紹介したので、日本は早い段階から知られていた。シルクロードがシルバーロードとも呼ばれるように、当時、ヨーロッパは大航海で得た銀で中国の絹を買っていた。一方、日本では金の価値が非常に高かったので、ヨーロッパは日本で金を銀に換え、銀決済の中国で銀を金に換えることで為替差益を得ていた。こうして世界中の銀が中国に集まるが、16世紀後半には世界の銀の1/3が石見を中心とした日本の銀山で産出されたものであった。このように、日本は世界経済の中で高い役割を果たしており、注目される存在であった。
 この頃戦国時代が終わり、家康の時代になった。秀吉は、武将を使って新たに獲得した土地から得たものを分配し、さらに拡大していく路線をとっていたが、家康は自給自足体制の中でサステイナブルな社会を作り、日本を260年間平和に保った。これはケンペルが『鎖国論』の中で「理想の国」と称賛したほど優れた社会であった。
 鎖国によって外国から新しい技術や資源が入ってこなくなると、日本は西洋とは微妙に異なる方向に進んでいく。江戸時代には各藩が自治権を持ち、人材や労働力を外から補充することはできなかった。藩を豊かにすることは藩主の務めであったので、「人」と「環境」を大切にし、知識を技術として実際の生活に役立てるのは当然のことであった。
 製錬の様子を描いた『西洋職人づくし』『天工開物』『加護金山之図』によると、作業者の姿勢が西洋、中国、日本でそれぞれ異なっており、座って作業する日本の特徴に合わせた道具やコンパクトな設備が作られているのが見てとれる。金銀の製錬技術は、西洋では当時水銀を使う方法が一般的だったが、高価な輸入品で環境と人に悪影響があることから、自給自足の日本では国内で安価に調達できる鉛と塩を使用した古い方法を採用していた。
 資源の開発には探鉱から輸送までの総合的な知識・技術体系と社会体制の整備が必要となる。鉱山は金や銀を産出する重要な場所であるので、優先的に資本が投入され、最先端の技術が発達した。どんな山奥でも人々と自然を大事にする設備が整えられ、裕福な共同生活が営まれ、さらにそこから文化が生まれ、全国に波及していった。
 有限な資源を次々と自分のものにしていく拡大再生産的な方向を選んだ世界に対して、日本は、有限であることを自覚した上で平和な社会を維持していく方法を試していたともいえる。技術は交流の中で発展するものだが、西洋とは異なる方向に進みながらも日本の技術は高い水準にまで向上した。それが可能な社会と人のレベルの高さがあったからこそ、明治維新で西洋と同じ方向を目指した後も日本は発展することができたのではないだろうか。
 佐渡金山は、体積にするとたった1.6立方メートル四方ほどにしかならない金のために、約400年間の操業期間でのべ何万人もの人を投入し、山の形まで変えてしまうほど採掘を行なった。採掘量が多く製錬技術も高かったため、鉱山としては唯一の小判所も置かれていた。現在、佐渡を世界遺産に推薦しようとしているが、この技術は十分それに値するものであるし、日本人はもっと佐渡に注目してよいと思う。
 さて、山全体のあり方を具体的に見ていきたい。中国地方で多く見られる「たたら製鉄」は、山に木を植えつつ木炭を作り、それを燃料に鉄を生産するという、需要と供給のバランスをとったものである。また、水田への悪影響を避けるために山を崩して砂鉄を取る作業を冬に限定していたり、その間に山の滋養分が川に流れ込んで土地が肥えたり、という形で環境と共生していた。鉄は武器ではなく鋤や鎌など広く人の役に立つものに使われ、刀剣は美術品として観賞されるものになっていった。技術が自然に優しい方法で、人々のために使われ、社会に役立ったことは非常に特徴的である。
 『佐渡金銀山絵巻』『大鎚金澤金山之図』『加護金山之図』『薬蒸気之図』には、様々なお店や劇場などのある日常、共同生活の営み、女性が子供の面倒を見ながら働いている鉱山の暮らしが描かれている。これも日本に特有のものである。時代劇の影響などから鉱山の仕事はきついという印象があるが、これは働き口がなくて江戸に流れ込む人々を防ぐための見せしめとした佐渡の水替人足だけである。実際は、ノルマさえこなせば山内での生活は割と自由で、経営者も労働環境の改善に努めていたので、仕事があって生活が成り立ち、結婚も可能だったという点では、むしろ幸せな環境だったのではないかと思う。

○江戸時代に育まれた用の美
 「用の美」とは柳宗悦先生の言葉で、「日常で使用する中で見いだされる美」ということである。日常で使うものをそれぞれの地域や人に合わせて、よりよくするために長い時間積み重ね、競い合い、認め合う中で残ってきたもので、これは「機能美」とは全く違うものである。日本では、自分専用の箸や茶碗を持ち、壊れても修理し、より使いやすく、より美しくして使い続けた。道具には八百万の神が宿り、粗末にすると「もののけ」(物につく怪)が出ると信じられており、それは今も引き継がれる、ものを大事にする「和の心」、「もったいない」の感性である。一度壊れて金継ぎした茶碗に「美」を見いだす国は、日本以外にほとんどない。
 この「用の美」は平和な世が生んだものである。平和な時代には、軍事技術が民用技術に転用される。”civil engineering”(市民の技術)という語は、西洋では市民も利用できる唯一の技術である「土木工学」を表すが、江戸時代の日本ではすべての技術が含まれた。江戸時代の職人は、西洋から伝わった空気銃から無尽灯を発明したように、実験と経験で原理を追究・理解し、複製にとどまらず、その原理を生かして生活に役立つものを作った。使う人に合わせてその人が使いやすいように相手の立場に立って作る日本の職人の技、技術がある。日本のモノづくりの根幹は「人の役に立つ」ことである。
 日本人は昔から「遊び心」を好んだ。「お雛様」は、もとは平安貴族の「ひいな遊び」の人形だったが、「厄受け」として嫁ぎ先へ持っていくものとなり、平和な時代になって庶民にも広まった。その過程で女性が歴史を語り継ぎ、地域の文化を伝える大切なものの象徴として「様」がつくようになったのだが、これは世界でも珍しいことである。最先端の技術であるレンズをのぞき絵に使ったり、布団で飾り物を作る方法を載せた本が売れたりと、遊び心があるものが人気を呼んだ。紙芝居やガマの油売りの口上は、品物を売ったり、リピーターを作ったりするためのサービス、もてなしであって、対価なく共有することができた。この頃の歌舞伎や人形浄瑠璃は庶民のためのワイドショーであり、演出やデフォルメ等で飽きられないような工夫をした。文楽人形なども実際の動き以上に美しく再現できるように作られているが、これは個人の発明ではなく、職人が協力し積み重ねていくことで生み出されたものである。
 また、戦がないので安心して店を構えることができ、大名のようにつけでまとめ買いのできない庶民に対しては、現金で切り売りをするようになった。大衆化した文化の中では、マニュアルは修理や説明をするためにのみ作られ、通常、カタログを見て買った物をマニュアルなしで自然に使う。技術力によって作られたものは特定の人が独占するのではなく、資金と興味があれば誰でも買える。平和になると物の売り方や買い方もこのように変化するが、このような社会体制は、ヨーロッパでは19~20世紀になってからのものであった。
 日本の技術力が高く評価されるのは「奇跡」ではなく、理由がある。例えば、日本のウィスキーの歴史は浅いが、2年連続世界一となった。これは、本来テイスティングの際に香りを立たせるために行う「水割り」をアルコールに弱い日本人向けの飲み方として一般化したため、日本では香りのよいウィスキーが作られるようになったことによる。また、日本人には江戸時代からの「ひいき」「こだわり」「らしさ」の伝統があり、よりよい商品を求めてクレームをつける顧客とやりとりをすることで品質を向上させていく社会体制ができている。このように、人々や社会の要求に技術で応えてきた歴史があることを、外に向けてきちんと伝えていくことも大切である。

○江戸時代の科学 自然を見る目
 自然を見る目とは「科学」である。現代社会は「科学技術」を中心として動いているが、日本人が近代に「科学」を受け入れた時、自然をどのように見ていたのだろうか。
 「科学」は「神=自然とは何か」を命題としてひとつの真理を追究するのに対し、「技術」はさまざまな方法があってコスト等の条件にも左右される面もあり、両者は正反対のものである。日本は「技術」(「用の美」)を中心にしてきたが、「科学=自然」に対しては「山川草木悉皆成仏」(すべてのものに魂が宿る)を基本としている。これは神仏習合の中で八百万の神と仏教的な考え方がうまく結びついて、無生物にまで魂があるという日本独特の考え方である。西洋では自然は人間が支配する対象で、そのために科学を発達させてきたが、日本人にとって自然は人間と同等で、畏怖の念をもって共存するものであった。
 15~16世紀頃は中国が世界の情報・知識の集まる場所であった。16世紀に作られた『本草綱目』は世界最初の百科事典といわれる動植物図鑑である。中国では、知識は実物を見ることができる支配者のものであったので、書物にはその存在を知識として集めるだけでよかった。しかし、西洋では科学者が真理を追究するために、日本では「技術」として人々が使うために、というように方向性は異なるが、正確さが求められる。日本でも江戸時代初期には中国の本草学によって学問のための学問をしていたが、実際に利用するために必要となって、現実に即した日本の本草学が生まれた。顕微鏡なども庶民の間にすぐに広まり、科学の基本である観察が行われるようになる。前述のとおり、藩を豊かにすることが藩主の務めであったので、率先して科学を技術に利用した。観察に基づいた昆虫学が農業に応用されて農学となり、科学は技術と結びついて工学となった。技術の中で見出された普遍的な法則が農学書として世界に先駆けてまとめられ、のちに輸出もされるようになる。日本において技術は社会そのものであったので、明治時代に本格的に科学が入ってきた時に技術に利用することも違和感なく行われた。それに対して西洋では、科学はまだ修道院など一部の人のものであり、技術として利用されるのはだいぶ後になってからであった。

○江戸時代に育まれた仁の心
 人を救うためには漢方、蘭学を問わず最もよい手法を使うのが医者の使命であると考えられていたので、当時最高レベルの中国と西洋の医学を受け入れて日本独自のものが形成された。知識を広く共有することで社会が豊かになるとわかっているので、支配階級は人々に知識を伝えていく。小石川療養所が開設されて治療が行われるとともに、翻訳書により外国の有用な知識を人々が利用できるようになり、自分で自分を守る「養生」の考えが広まった。こうして役に立つ本が多く出版されたので、それを読むために寺子屋が発達した。
 そのような中で出版された『解体新書』は、『ターヘルアナトミア』以外の医学書の内容も盛り込み、翻訳するだけではなく論説も加えて、西洋の当時最先端の医学がわかるようなものになっている。解剖は生きた人間の治療には直接関係がなく、道徳的に許されない行為として反対されていたが、実験と検証が治療につながるという漢方の考えから社会的に受け入れられ、この本は広く読まれるようになった。さらに、解剖によって臓器の機能や人体の構造などの研究や動物との比較も行われ、基礎医学、さらには自然科学へと発展した。そのような社会の理解のもとに、明治以降の日本は、病理学によってより多くの人を救おうとするドイツの医学を手本とすることになる。
 これまで見てきたように、日本人は有用な書物はすぐに翻訳するので、母国語で最先端の科学を勉強し研究できた。また、最先端の科学は「人々のために」技術に取り入れるという発想が根本にあるので、早い時期から世界的な貢献をするようになった。ノーベル賞は社会に大きな影響を与えた業績に授与されるが、このような江戸時代からの流れがあるからこそ、多くの日本人が受賞しているのだと思う。

※時間を延長して熱心にご講演くださいました。質疑応答は行いませんでした。