平成27年度「社会・人文系再発見シリーズ」連続講演会 ◆ 講演録

「持続可能な社会」としての江戸 ~今を生きるヒント 第2回


「エコシティと水の都市江戸」

   陣内 秀信氏 (法政大学デザイン工学部建築学科教授)
  平成28年1月31日(日) / 神奈川県立図書館 新館4階セミナールーム

【講演概要】

陣内秀信氏  近年「江戸」が新しい切り口で語られ、重要なテーマとされている。私が大学で建築を勉強しながら時代を感じた1970年前後、高度経済成長を背景にダイナミックな東京が形成される一方、その少し前の東京オリンピックの頃をピークに川の水は汚れ大変臭く、下水は埋めたてられ、東京の水辺は歴史や自然が失われていった。ヴェネツィア留学を経て、どちらも水の都市としての特徴を持っているイタリアと東京の比較研究を進めるなか、「水都東京」の面白さと出会い、東京の街の歴史や都市としてのアイデンティティが様々なところからみえてきた。歴史と生態系を組み合わせて調査し、都市を歴史的にみていく研究に取り組み、東京の水辺を35年ウォッチングしてきた。『東京の空間人類学』を出版した85年や、86年頃に、江戸東京ブームが盛り上がり、自分たちの歴史や文化を見直す流れが起きた。近代化の中で日本人は、江戸で培った遊び心を横に置いて生真面目によく働いてきた。2020年のオリンピックでは、自然と共生してきた都市の魅力を発信したい。
 自然と共生していた文化を取り戻すこと、過去を知ることで未来の想像力の源にすることが今後の課題である。江戸はそのために重要なテーマであり、水の都市はその柱となるものである。エコロジーのアプローチでは江戸が自然と共生していたことが評価されているが、さらに江戸の水辺には賑わいがあった。もちろん水害から守ることが前提にあるが、文化の舞台、人々のアクティビティは、ほぼ水辺にあったということをお話ししたい。

陣内秀信氏  隅田川沿いにできた東京スカイツリーの展望台に登ると、現代の東京を訪ねる人は周りに川や濠が多くあることに気がつくだろう。スカイツリーからの眺めは鍬形蕙斎が描いた『江戸一目図屏風』とほぼ同じアングルであり、この絵では日本橋の方に親しみを込めて描かれている。現在、東京の文化は西の方に重点的に集まっているが、スカイツリーからの景色には、文化をもう一度東の方に取り戻そうというメッセージを込めることができる。実際に、日本橋から船でスカイツリー周辺を目指すツアーができている。
 最近地形というものに関心が寄せられ、地形を見て、どのように町ができあがったのか考えるということに目が向けられている。流行のきっかけはテレビなどで、理由としては、めまぐるしく変わる都市の中の変わらないものとして原風景が頼りにされていることが挙げられるのではないだろうか。
 幕末の測量図を見ると、東京湾は遠浅で非常にデリケートな地形であったことが分かる。埋め立て地の多い東京は、運河を残して埋め立てる手法でできあがっていった特徴を持っている。内陸にいる漁師が外へ出られるようになっているのである。また、東京湾の魚の分布図も測量図と同じ展覧会の図録にあり、大変興味深い。
 このような状況にあった当時、水辺では都市を水害から守るということが重要視されていた。隅田川とセーヌ川、テムズ川との比較研究では、水害と戦う方法論はすべて異なっていた。東京湾の場合、大きな工事で川の付け替えを行っている。また、埋め立ても盛んに行なわれ、埋め立てと洪水の歴史であった。近代になると、下町での地下水のくみ上げと、遊水地がなくなったことにより、洪水は増えてしまった。堤防を作り、洪水の直撃を防ぐ一方、江戸の水辺では遊び・儀礼・演劇・行事など様々なことが行われた。江戸では、水害から都市を守りながら豊かな水辺に親しんでいたことが分かる。
 江戸の水辺の重要な特徴として、河岸の多さが挙げられる。横浜ではベイエリアに船が集まり、物を運ぶが、江戸では大型船の荷物を小型船に積み替えることで、船が陸地深くに入り込むことができた。これを我々は「内に港が分散する仕組み」と呼んでいる。幕府の実施した利根川を東に移す整備は、物資を舟で江戸に集めることが主目的だったといわれる。先日、実際にそうして作られた物流のルートを見学し、大変面白かった。ヨーロッパではこのような実際の運河ルートを現在、レクリエーションに利用している。
 日本橋は魚のマーケットとして発展した。河岸には蔵が置かれて荷揚げがされ、現在の飯田橋の方まで船が入り込んでいた。蔵の裏には町屋があり商売が行われていた。後に、蔵は西洋風のオフィスに変化していった。また、その町並みには所々に火除地と呼ばれる空地があった。火災時の延焼を防ぐために、何も建てない場所なのだが、実際には火事の時には取り壊せるような簡易な小屋が建ち並び、活気ある盛り場となっていった。仮設小屋を建て、いざというときにはとっぱらう、という大変にアクティブな活用がなされていた。
 先ほど、漁業の分布図を示したが、東京ベイエリアの基層には漁師町があり、良い場所を占めていた。漁師は豊漁祈願や水害よけのため信仰心が篤いことが多く、安全と豊漁を願って水際に神社やお寺が建てられ、お祭りもたいへん活発に行われた。海中渡御の儀式も東京五輪直前まで行われていたが、東京五輪を境に、また当時の水の汚さ、水離れによって、様々な文化が途絶えてしまった。その文化をこれから取り戻していきたい。
 都市は今まで陸の視点で語られてきたが、水の視点から考えると見えてくるものがある。産業・経済・遊び・信仰 これらを豊かな水が育んだ。河岸を石で固めたヨーロッパと比較して、神田川沿いは木の杭で固められており、自然の景観を残している。緑が多く神社やお寺がある。人も多く、庶民のエネルギーにあふれ、かつ自然がある美しい空間になっていた。近辺に多くの人が住んでいたが、路地裏の長屋の住人が多くいたため、開放感を求めて水辺に人が集まった。水辺にはお寺や神社があり、お参りに行って、帰りには遊んだ。こうして、江戸全体が行楽空間になっていたといえる。
 江戸より歴史が古く、江戸の原点といえる場所として浅草がある。8世紀頃に起源をもつような場所もあり、この近辺は大変歴史が古い。セーヌ川は町の中心を流れ、南北に町が発展した。隅田川は町のふちに流れ、日本橋が経済・物流の中心となる。浅草寺付近は古代・中世からの歴史があり、神話も多く、そのイメージを発信するところであった。そこには遊郭・芝居小屋など芸能の中心があり、奥ながら発信力のある、民衆の自由な空間があった。民衆の自由な空間として人々の心をとらえ続けてきた隅田川は母なる川である。セーヌ川も同じ母なる川だが、日本ほど自由ではなかったという。この違いは、日本の河原の思想とつながっているのではないだろうか。普段は乾いていても、洪水になれば水に沈んでしまう河原には、立派なものは作れない。しかし、信仰の対象は建て、水害から守るという雰囲気がこの自由な空間を作り出したのではないだろうか。品川の荏原神社では、神輿を水に入れる儀式がお台場海浜公園で行われる。神輿が水の中に入ってしまう儀式、海中渡御は全国に存在する。日本の水辺には儀式が欠かせないものだったのである。

 川を中心に都市が成り立つことは他の都市にも言えることだが、東京の場合は、一つの川だけではなく、様々な種類の水辺をもっているという特徴がある。古くは、永井荷風の『日和下駄』で東京の水辺の多さについて触れられている。後半は、江戸の文化が水と結びついてきたことについてお話ししたい。

 東京を研究して気がついたのだが、東京で人々を惹きつける3大スポット深川・両国・浅草、これらはすべて水辺に位置し、宗教空間である。「都市に広場があったのか」という視点で見ると、ヨーロッパでは、市の中心に人が集まり、教会があり、中世の市役所広場となり政治が行われた。趣を異にするが日本には、両国広小路があった。ここでは様々な小屋が、多様な管理主体の下に自主管理されており、活気のある盛り場になっていた。また、花火というのも大変に盛り上がるもので、花火は元々疫病を防ぐ祈願などとしてあげられる宗教的なものであった。橋の近くにある料亭がスポンサーとして打ち上げていたのである。
 また、川沿いに勧進能の際の巨大な能舞台を仮設で作ったことがあるようだ。復元研究により、大変大きなものであることが分かっている。当時の能のスターが幕府に許しを得て、生涯に一度だけ作ったものである。鬼門の方向の2か所で行われたが、どちらも川沿いに、火除地となっているところに建てられた。川の近くのオープンスペースに仮設し、公演が終わったら取り壊すようにしていた。江戸の早い時期から水辺に演劇はつきものだった。屋形船も多く、日本各地に、川に面した料亭があった。これは、空調のない時代に川沿いが過ごしやすい居場所であること、しかし洪水の心配から住宅地にはできないことが原因と考えられる。このような背景から、川沿いは特別な遊び場になった。

 水の都市の認識、水都の概念を深めようというのが我々の大きなテーマである。水辺には必ず歴史と生態系がある。近代化で途切れてしまっていた「水と緑のネットワーク」を「歴史エコ回廊」と名付けた。「水循環都市」の視点を広げて、できるだけみんなで楽しむようにしていきたい。
 江戸は「水循環都市」である。江戸城の水のシステムは素晴らしく、玉川上水の水が環状の外濠、内濠に入り水が循環する。玉川上水から分水して用水路を設け武蔵野で農業が発達した。日野は東京の縮図である。豊かな地形と湧水、地下水、川などが活かされた江戸の水循環の歴史の原風景は『水の郷 日野』に詳しい。重要な役割を果たした江戸の水系における外濠の存在は忘れられていた。外濠で学生たちと水上ジャズコンサートを行って、その存在をアピールしている。変化にとんだ水辺である神田川沿いの環境資源は世界に誇る都心のオアシスだ。
 世界中に「水の都市」はある。小さい集落も入る概念であり、小さい町も多く見られる。水都学として研究を進めている。日本の水辺は、産業だけではなく、暮らしやライフスタイル、あらゆるところとつながっていた。忘れてしまっている文化、自然と歴史を取り戻し、世界に誇れる日本を発信していきたい。

【質疑応答】
◆濠や川の付け替えの土木工事の費用はどのようにして出したのか。
→各藩に負担させていたのではないだろうか。どの班がどのような事業に費用を出したのか、詳しい研究はあまり見たことはないが、他の公共事業の例から、有力な藩にやらせていただろうと考えられる。

◆江戸の町の臭い・空気のきれいさということに関する研究はあるのか。
→江戸のごみについての研究はあるが、臭いは記録に残るものではないため詳細は分からない。しかし、今よりもネガティブな臭いがあったはずである。
ヨーロッパには、川沿いのマーケットが非衛生になり、引っ越した記録がある。比較すれば日本橋での衛生管理は良くできていたのではないだろうか。街の臭いは下肥があったり、川には死体が流れ着いたりするようなこともあったため、今よりずっと酷かっただろう。近代ではそういう問題を乗り越えてきており、衛生感覚も時代とともに変わっていったのだろう。

◆水辺には沼地というイメージがあるのだが、下町にたくさんあるビルの基礎や地盤はどうなっているのか。
→スカイツリーの周辺の地盤は固い。建築技術は優れているので、固い地盤まで杭を打ち、建物は潰れてしまわないようになっており、液状化によるライフラインの断絶の方が懸念されている。歴史的には建物の基礎には松の杭が使われたようである。これは世界でも良く見られる方法である。