「ニーベルングの指環-リング・リザウンディング」 ジョン・カルショー著

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「ニーベルングの指環-リング・リザウンディング」 ジョン・カルショー著
学習研究社 2007年 資料番号:22414072 請求記号:766.1/281(AV)
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 この本は、まだレコードのステレオ録音が始まったばかりの今から50年以上も前、無謀にもワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」(Der Ring des Nibelungen)全4部作のレコード録音を企てたプロデューサーの奮闘記です。といっても業界事情をご存知ない方にはチンプンカンプンではないかと思うので、少し説明しておきましょう。
      
 リヒャルト・ワーグナーは19世紀のドイツの作曲家で、主に歌劇(中には「楽劇」と自ら名付けた作品もあります)の作曲で活躍し、現在でも各地の歌劇場でレパートリーに組み入れられています。いつまでも続く「無限旋律」や不健康ともいえる半音階進行など独特の作曲技法に、「ワーグナーの毒」という言葉があるぐらいで、うっかりはまり込むとなかなか抜け出せないキケンな音楽でもあります。時の若きバイエルン国王ルートヴィヒ2世もこの毒に中って海千山千のワーグナーの手玉にとられ、骨の髄までしゃぶりつくされてしまったのでした。

 余談ですが、このイケメン国王は、ワーグナーへの度を過ぎた入れ込みと、もうひとつの趣味のお城づくりがもとで国の財政を傾けてしまったので、「殿ご乱心」となり、主君押し籠めにあってその後謎の死を遂げてしまいます(この辺のエピソードは森鴎外の『うたかたの記』にもチョロリと出てきます)。しかし、そのとき作ったあのノイシュヴァンシュタイン城が今ではドイツ随一の観光名所として稼ぎ頭になっているのですから、何が幸いするかわからないもんです。因みに、宝塚歌劇でも有名な、絶世の美貌を誇る悲劇のオーストリア皇妃エリーザベトは、ルートヴィヒ2世の父の従妹なんです。同じように放浪癖があり、これまた悲運の死を遂げます。
 さて、ワーグナーの主な作品は10作で、そのうち4作が「ニーベルングの指環」として、序夜「ラインの黄金」、第一夜「ワルキューレ」、第二夜「ジークフリート」、第三夜「神々の黄昏」という連作になっています。
 何が大変かといえば、まず上演時間です。最短が「ラインの黄金」で、これだけでも約2時間半連続。最長は「神々の黄昏」で幕間入れずに正味約4時間半。全4部作だと約15時間程度を要する、モンスターのようなシロモノなのです。1作だけでも、午後4時に開演し2回の幕間を入れると終演が10時過ぎ、延々と拍手があって劇場を出るのは夜も更けた11時ごろヘトヘトになって宿に着く、という具合です(バイロイトの場合)。歌手やオケも大変ですが、観るほうもえらく体力を消耗するのです。
 そのため、実際に劇場で4部作を連続して上演(チクルス)するのは相当の困難が伴い、ワーグナー教徒(ワグネリアン)のメッカであるバイロイト音楽祭ですら毎年上演とはいかず、大きな歌劇場でも、いずれか一作を単独で上演するのがむしろ多いくらいです。
 因みに、わが国での4部作連続上演は、昭和62年のベルリン・ドイツ・オペラの引越し公演で、その会場となったのが神奈川県民ホールでした。

 というわけで、レコード録音も、1950年代になりSPレコードからLPへの移行で初めてオペラ全曲録音が可能になったばかりで、ワーグナーの作品の録音などは片手で数えるぐらいしかない時代に、こともあろうに「リング」4部作を全部録音する、などという企画は、採算性の検討どころか、奇想天外な妄想と受け止められていました。
 この本の筆者ジョン・カルショーは、この非現実的ともいえる録音プロジェクトを企画し、そして実際に成し遂げてしまった音楽プロデューサーで、当時イギリス・デッカ社に属し、30歳そこそこの若造ながら、社のトップを口八丁手八丁で丸めこんで同意を取り付け、膨大な経費も「何とかなるだろう」と意に介さず、猪突猛進したのでした。
 本書には、ライヴァル関係にあるEMIの同業者に対する当てこすりや、著者が評価していなかったバイロイト音楽祭で実は舞台上演をライブ録音していたが、歌手の専属関係等の理由によりオクラ入りになった事情なども記されています。また、録音会場となったウィーンのゾフィエン・ザールの確保、指揮者に当時飛ぶ鳥も落とす勢いだったカラヤンではなく、無名に近かったゲオルク・ショルティを起用したいきさつ、ショルティとウィーン・フィルの軋み、胃に穴が開くような第一線の歌手のスケジュール調整など、好事家にはたまらないエピソードが満載です。
 しかし何といっても感心するのは、レコーディング・ポリシーに対する信念ではないでしょうか。当時はステレオ録音が実用化し始めた時期で、カルショーは早くからその劇的効果を見抜き、まるで眼前に物語の風景が展開するような効果を、音響のみによって生み出す、というコンセプトを明確に打ち出していました。そのため、舞台奥から歌手が登場する場面では実際に歌手を別室から歌わせながら入場させたり、鍛冶場のシーンのためウィーン中の鉄床を借りまくったり、雷鳴音のため高さ8メートルの特注の鉄板を持ち込んだりといった、録音効果を最大限に上げるための涙ぐましいまでの工夫を凝らしています。
 このような録音には、当時から「人工的で不自然だ」「実際の舞台上演と違う」という批判があったようですが、著者は「当たり前やん。録音芸術という新しいジャンルなんや」と言わんばかりの自信をもっていました。
 そして、兎にも角にも、1958年の「ラインの黄金」から始まった録音は、1965年の「ワルキューレ」まで足掛け8年を要して完結し、LPで19枚(CDでも14枚)に及ぶ大プロジェクトは、クラシック界としては異例の大ヒットとなり、ワーグナーの音楽を広めるのに大いに貢献したことは間違いありません。
 このようにお金も時間もかかるオペラのスタジオ録音は、今や全く廃れてしまい、オペラのソフトといえば、映像機器の発達もあって、実際の舞台上演の録画が主流になってしまっていますが(奇しくも著者はそれを予言しています)、50年たってもなお色褪せない鮮鋭な録音は、今後もオペラ録音の金字塔として、人類の文化遺産に値する意義を持っているものといえましょう。
 なお、本書は、1968年に故黒田恭一氏の翻訳で出版され、その後絶版となり長い間幻の本となっていましたが、3年前(2007年9月)新訳版として刊行されたものです。県立図書館にはこの初出本も所蔵されています。ヒマな方は読み比べてみてはいかが。
 また、当館の視聴覚部門には、「指環」のセットが何と15種類もあります。当のショルティ盤はもとより、カラヤン盤、ベーム盤、フルトヴェングラー盤、ブーレーズ盤、レヴァイン盤、ハイティンク盤・・・・・・。どうぞお好きな盤を聴いてみてください。私はすべてを聴く気力はありませんが。
 このコレクション、実はかなりの部分はワーグナー・ファンの篤志家の方からの寄贈によるものです。公共図書館でこれだけ所蔵しているのは、恐らく当館だけではないでしょうか。時折「ここのコレクションはちょっと偏ってんじゃないの」というご指摘をいただくことがあるようですが、こうした事情なので何卒ご理解を。

こんな本もあります
〇カルショーの他の著書
 『レコードはまっすぐに』(学習研究社 2005年)
〇国王ルートヴィヒに関する蔵書いくつか
 ジャン・デ・カール著『狂王ルートヴィヒ』(中央公論社 1983年)
 須永朝彦著『ルートヴィヒ2世』(新書館 1995年)
〇ワーグナーに関する蔵書いくつか 
 渡辺護著『リヒャルト・ワーグナー』(音楽之友社 1987年)
 カール・ダールハウス著『リヒャルト・ワーグナーの楽劇』(音楽之友社 1995年)
 高辻知義著『ワーグナー』(岩波書店 1986年)

(県立図書館勤務 実はモーツァルティアン)